虎尾達哉 中公新書 2021.3.25
読書日:2021.7.11
日本の官僚は勤勉で長時間労働も厭わない印象があるが、古代の日本ではそうではなかったと立証する本。
日本では律令国家になってからの式部省(いまの人事)の文書が多数残されていて、そこには官人(律令時代の国家公務員のこと)に対して遅刻するなとか、式典をサボるな、とかそういうお達しの文書も多くある。著者はいままでもそういう文書があることは知っていたが、あらためて考えてみると、これはすごいことなのではないかと思い、調べ直してみたという。
すると、サボりが日常化しているだけでなく、それに対する政府の対応も甘々で、ほとんどお咎めらしいお咎めがないことが分かった。いちおう厳しい罰則があるのだが、といっても本場の中国に比べるとまったくゆるい罰則なのだが、実際にはそのようなゆるい罰則にも、実施しようとすると、式部省は厳しすぎると言って反対し、官人たちを守ろうとする。
これは雇われる方と雇う側の両方に問題があるらしい。
古代日本では未開の国にいきなり律令国家を作ろうとしたわけだが、そうすると膨大な数の役人が必要になる。その役人は上級の役人ついては有力な豪族がなったが、実働部隊の下級役人はそれほど有力でない中小の豪族から供給することになる。しかしそもそも豪族なんだから経済的に自立しているわけで、わざわざ役人になる必要はないから、たとえば給料を減らすと言われてもあまりこたえない。
いっぽう政府の方には、ともかく役人の人数を揃えるというニーズがあるので、質よりも量ということになり、律令国家の発足時には、いてくれるだけでありがたい、という感じだったらしい。これでは強く出られないのも当然だ。それどころか役人になることに魅力を感じるようにいろいろ役得を設けることになる。
しかしこうしてみると、当たり前のことだが、国家を作るということは、官僚組織を作るということなんだなあ、とあらためて思う。発展途上国にいくと、役人がルーズだなあ、国がしっかりしていないなあ、と感じることもあると聞くが(わしは発展途上国に観光旅行でリゾート以外に行かないので、ぜんぜんそんなこと感じないが)、官僚組織を整備するというのは、とてもとても大変なことだなあ、と思う。
そしてある程度官僚組織が充実したあとも、サボりは許容されたようだ。それはなぜかというと、各省は全役人がきちんと働いたという前提の予算を請求し、サボった役人にはペナルティを引いた分だけ渡すから、残った予算は各省の予備費になるのだ。このお金がないといろいろ支障が出るので、サボりは許容されたのだという。
しかも、肝心の仕事は面倒くさいものからアウトソースされる傾向を強めていって、例えば罰金の徴収は結局、検非違使(けんぴいし)に外注されたらしい。
面白いのは、仕事はサボっていても、読み書きの練習とかそういうところはひどく真面目にやっていたらしいことだ。きっと実用的な技術だったからでしょう。こういうところも実用性を重んじる日本人を表しているようで面白い。
著者は古代日本が専門だから仕方がないが、ちょっと不満なのは、じゃあ、日本人がいつから勤勉になっていまはどうなのか、という視点がこの本にはないことだ。これに答えるには長期的な歴史の知識が必要になる。
わしの印象では、日本人は歴史上、ずっとさほど勤勉ではなかったと思う。おそらく、江戸時代に入っても武士の皆さんも、お百姓さんも怠惰に暮らしたんじゃないでしょうか。そんなにたくさん仕事をしなくても暮らしていけた印象があります。
明治になって、一瞬、役人のレベルが上がったような気がしますが、それはきっと一つ間違えば国家が植民地になるかもしれないという緊張感があったからでしょう。
そして、いまの日本人は、上から下まで享楽的な本姓を取り戻していると思います。そのせいか国家の生産性はまったく上がっていませんが、多くの日本人はかなり楽しそうに見えます。(一方では貧困層が不気味に拡大していますが)。
肝心な仕事をアウトソースするところでは、最近のコロナ用のアプリがまったく動作していなかった件を思い出しました。
不思議の国・日本の現実はまだまだ続くでしょう。(笑)
★★★☆☆
以下参考