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生まれながらのサイボーグ 心・テクノロジー・知能の未来

アンディ・クラーク 訳・呉羽真、久木田水生、西尾香苗 春秋社 2015.7.25
読書日:2023.4.2

電子的に繋がれていなくても、人間は道具を使っているだけで肉体も精神も拡張されており、事実上のサイボーグ状態だと主張する本。

この本の原著は2003年に出版されている。それから10年以上たって翻訳出版されているわけで、この本が投げかけている問題が時間を越えた普遍性を持っているばかりか、当時出現していなかったスマホなどを持つことで、いっそうその主張が説得力を持つ状況になっている。

では、クラークの主張を見ていこう。

人間は苦手なことを道具を用いて足りない能力を補おうとする。クラークによれば、人間は「フリスビーは得意だが論理は苦手」な生き物なんだそうだ。そういうわけで、この低い論理能力を補うために道具を使う。

例えば計算だ。人間は掛け算ができるけれど、暗算でできるのはせいぜい2桁までで、それ以上は難しい。つまり人間は計算が苦手だ。その能力を補うために紙と鉛筆を使う。筆算を行うと、計算は1桁の小さな単位に分解できるので、人間の低い能力でも計算することができる。つまり、紙と鉛筆は計算機として、あるいは途中経過を記憶しておくためのメモリとして機能している。

もちろん、未来の人間がコンピュータを体内に埋め込んでいて、素早く計算できる能力を身につけることもあるかもしれない。しかし、それは紙と鉛筆を使って計算するのとなんら本質的な違いはない、とクラークは言うのである。

苦手な論理を補うことができるようになったのは、もちろん言語という他の動物にはない機能を持っているからである。とくに書くという技術を手に入れてからは、知識を蓄えて、論理を構築することが非常に簡単になった。

さらにどこまでが自分の身体かという認識は非常に曖昧なのだという。

例えば、視覚障害者は自分が使っている杖をまるで自分の身体の一部のように感じているのだという。あるいは義肢を持っている人なども、義肢を自分の身体の一部のように感じている。実際に、杖や義肢に打撃を与えると、痛いと感じるんだそうだ。その他にも、道具を使っていると道具は身体の延長のように感じるし、例えば車を運転すると身体の範囲は車全体に拡張されたように感じているという。

身体の拡張は別に身体に接していなくてもいい。自分の身体という感覚は、それが身体から離れていても拡張される。これはとても有名な例だけれど、自分の目の前の人(マネキンでも良い)の背中を撫でるときに、後ろから第3者に背中を同じタイミングで同じように撫でられると、前の人の身体は自分の身体だと脳は誤認する。(つまり幽体離脱を簡単に経験することができる)。

こんなふうに自分という存在の範囲はどこまでも拡張が可能だから、通信でつながっている遠くにいるロボットでも、自分の延長と認識することは十分可能ということになる。テレプレゼンスというこの感覚は、2003年当時は革新的な発想だったかもしれないが、いまでは当たり前の感じすらする。

このように自分というのが曖昧なのは、実は自分という存在はその場その場の便宜的なもので、まったく固定したものではないからなのだという。ここでクラークはデネットの、人間は単なる道具の集まりで、自己を担っている器官は存在しない、という説に基づいて話している。

なるほど、どうやら高名な哲学者であるデネットを読まなくてはいけないらしい。これはまだ読んだことがないからなあ。

しかし、まあ、電子的につながっていなくても、なにか道具を使っているというだけでサイボーグと同じというのは、確かに納得できるし、不思議でもなんでもない。

誰もが小さなコンピュータであるスマホを持ち歩いている現代では、なおさらそう感じるだろう。

★★★☆☆

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