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酔いどれクライマー 永田東一郎物語 80年代 ある東大生の輝き

藤原章生 山と渓谷社 2023.3.10
読書日:2023.7.23

1984年にヒマラヤK7の初登頂を成し遂げた東大スキー山岳部遠征隊の隊長で周囲に強い印象を残し、K7後は登山から引退するも、最後は酒に飲まれて46歳で亡くなった、永田東一郎の評伝。

著者が永田に出会ったのは、都立上野高校の2年のときだったそうだ。その時、永田は上野高校の登山部のOBで、すでに高校を卒業していたが、しょっちゅう顔を出していたという。永田は上下関係にはまったくむとんちゃくな人で、上に対しても下に対しても言葉遣いも態度もまったく変わらない人だったそうで、つまり、上からは疎まれて、下からは慕われるタイプだったらしい。

もともとこういう性格だったのに、さらにそれを助長させたのは、当時の都立上野高校の校風だったそうだ。このころ、この高校ではすべてを生徒が自主的になんでも決めて、先生方はそれをすべて受け入れたという。こんな校風なので、著者も高校を卒業した後、社会性(つまり上下関係)を身につけるのにひどく苦労したのだという。永田に関しては、死ぬまでそれを身につけることはなかったようだ。

永田は高校もそうだが、育った日暮里周辺を離れることは一生なかったそうだ。山に登るためには日本中の山や、ヒマラヤにも出かけることはあっても、普段の生活は決して日暮里周辺から出ることはなかった。東京の土着民なんだそうだ。著者が北海道大学に進学したときも、なんでそんなとこに行くんだよー、とブツブツ言っていたそうだ。

日暮里から上野のあたりは崖になっていて、その崖を使ってクライミングの練習をしていたのだという。著者もつきあわされて、安全のためのロープ係をさせられていたという。でも優秀というほどのクライマーではなくて、永田が長年登れなかった崖を著者があっさり登ってしまうと、なんで登れるんだよー、とずっと言っていたそうだ。

山では常に初登頂や、初のコースを切り開くことに執念を燃やしていて、そうした経験を雑誌に発表して、素直にすげーだろーと自慢していたという。そして、誰も登ったことのないK7に挑むことにする。

永田の率いる東大スキー登山部がK7を攻略できたのは、緻密な計算のおかげだった。荷物の重さをグラム単位で計算して、それをどのルートでどんなふうに運ぶかというプランを綿密に練ったおかげで、けっこう簡単に登れてしまったようだ。そして頂上に登ったが、そこにはいつもの頂上があっただけで、何もなかった、と言い残して、それからすっぱりと登山から身を引いてしまう。もっともそのころから、あまり荷物をもたないスピード登山が流行って、すでに大きな荷物で攻略する方法は時代遅れになっていたのだというのだが。

東大の建築学科に入るのはひどく難しいらしいけど、そこを卒業して、建築家となる。ところが山と同じように、人が作らない初めてのもの、オリジナルなものにこだわった結果、仕事はほとんどこなかった。しかもどの事務所に勤めても、長続きはしなかった。それは社会性がないせいもあったが、実際には酒のせいだった。

収入がほとんどないのに、毎日、深酒をしないではいられなかったのだから。やがて、友達に借りまくるようになり、離婚もして、知人たちの間でなんとかしなくてはという危機感を抱いている頃、静脈瘤破裂で46歳で亡くなってしまうのである。父親も酒飲みで酒で人生を狂わせていて、本人もそんな父のことを恥ずかしがっていたのに、自分もそうなった上に、父親よりも早く亡くなった。

もしも生きていたら、などという想像ができないのが永田さんなんだそうだ。あまりに生きていたときのイメージが強すぎて、出会った人の誰もが生きていたときの永田さん以外の姿を思い浮かべられないのだという。

うーん、どうなんでしょうか。

思いっきり、ひとの印象に残って亡くなったほうがいいのか、誰にも知られずにひっそりと死んだほうがいいのか。まあ、わし自身は友達もいないから、誰にも知られずに死んでいくんでしょうけどねえ。

★★★★☆

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