ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之・訳 河出書房 2019.11.30
読書日:2020.1.14
サピエンス全史とホモ・デウスのハラリの最新作である。前者がホモ・サピエンスの過去を語り、ホモ・デウスが未来を語っていたのに対し、本作は今のサピエンスの状況に対するハラリの見解を述べている、という触れ込みである。そうすると、サピエンス・シリーズは一応の完結を迎えるということなのだろう。
サピエンス全史でハラリは、人間がこのように発展できたのは物語(虚構)を通じて、多くの人をまとめることができたからだとしている。これこそが人間にできて他の生物にできなかったことであるという。この特殊技能のおかげで、人間は何億人という単位でまとまって、活動することができると主張した。
次のホモ・デウスでは、人間の物語はテクノロジーの挑戦を受け、このような物語すら必要としなくなる可能性を指摘している。つまり、人間はここに消え去り、データのみを機械(AI)が黙々と処理するような世界の可能性すらあるとした。
このような認識でいるハラリが現代を見ると、現代は過去に通用してきた物語が通用しなくなってきた時代ということになる。それらの物語は限界を打ち破るためにアップデートを必要としているが、いまのところ新しい物語は生まれていない、というのが現状の認識である。
で、ハラリがここで人間の物語として取り上げているのは、主に自由主義という物語である。この物語は、政治的には民主主義や国民国家、経済的には資本主義と自由貿易、そして科学的研究の基礎にもなっている。まさしく、政治、経済、科学にまたがる壮大な物語である。この物語が、いま危機を迎えているのだ。
個人の自由は、テクノロジーに監視されプライバシーはなくなり、アルゴリズムに意思決定が左右されて自由意志も脅かされている。そればかりか、AIに雇用も奪われ、ほとんどの人間は国家からの最低限の保障で生きていく存在になるかもしれない。
民主主義は、国民国家とセットになっているが、すでにほとんどの危機(環境問題など)は国家の枠を越えてしまっているのに、国家はこれに対応できない。国家同士が話し合うのがいいのかもしれないが、移民などの問題で、偏狭なナショナリズムで国家は排外的な傾向を強めている。
経済もグローバルな自由貿易かそれとも国家の利益優先か、など経済も同じ状況である。
フェイクニュースが蔓延して、真実が何かを得ることも非常に難しくなった。とはいえ、フェイクニュースは現代に特有のものではなく、過去からずっとそうだった。しかし、テクノロジーがそれを増幅している(他の分野と同じように)。
このように、物語がアップデートされていない状況であるが、われわれになにかできることはあるのだろうか。
ハラリはまずは従来の物語から自由になることが必要と考えているようだ。
そもそも物語には主人公がいて、そして主人公は誰に設定されていたとしても、じつは「自分(私)」が主人公である。物語という思考方法は、自分から離れて物事を考えることができない構造なのだろう。このあたりが物語という手法の最大の弱点なのかもしれない。
したがって、対策の一つは個人に頼らないことである。科学のように、自分だけの意見ではなく、集合的に知を高めていく方法なら、個人に頼らずにすむ。
では、個人にはできることはないのだろうか。彼自身が行っているのは「瞑想」である。瞑想は自分から一度離れ、自分をも客観的に観察する訓練に適しているのだという。ハラリは一日に2時間を瞑想に当てているのだそうだ。
こうして物語で世界を征服した人類という考え方を主張した歴史学者は、皮肉にも現代では物語から離れるように読者を誘っているのである。
人類全体について議論しているサピエンス三部作なのに、最後はハラリの個人的な瞑想の体験で終わっているというのは、なにか非常に象徴的な感じがした。
もしかしたらハラリは世俗を超越しちゃったのかもしれない。(笑)
★★★★☆