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官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

デヴィッド・グレーバー 訳・酒井隆史 以文社 2017.12.10
読書日:2023.8.17

たとえ規制緩和してもますます規制が増え、官僚が増える結果になるという「リベラリズムの鉄則」があり、いまや全面的官僚化の世界になってしまったが、このような官僚制を議論するときに、忘れられがちないくつかの論点があるとし、1つは制度に潜む国家の暴力であり、1つは官僚制がテクノロジーに与える負の影響であり、1つには我々が実は規則(ルール)を好むことがある、と主張する本。

惜しくも2020年に亡くなってしまったデヴィッド・グレーバーだが、アナーキスト文化人類学者というユニークなバックボーンを持っているので、なかなか人の気が付かない切り口でズバッと言ってくれるのが楽しい。

たとえば、経済活動をすべて自由にすればいいというような新自由主義の主張に対して、そもそも自由に活動できるわけがない、と簡単に論理的矛盾を指摘する。なぜなら、資本主義とはお金を稼ぐことであるけれど、その通貨は国が管理しているから、国の制約を超えることが不可能だからだ。あらゆる権威を嫌い、権威の発生する源泉を問い詰めるアナーキストならではの言明だろう。

そういうわけで、権威を嫌うデヴィッド・グレーバーが官僚制について考えをめぐらすというのは当然のことのように思える。なにしろ選挙で選ばれたわけでもないのに、役人たちはなにやら偉そうにしている(ように見える)。そして何か手続きをしようと思うと、あれが足りないとかここではできないとか、たらい回しにされた経験は誰でも多かれ少なかれあるのではないだろうか。実際、この本は母親のために手続きをしようとして役所やら銀行やらをたらい回しにされた、グレーバー本人の経験談から始まるのだ。

20世紀が始まって以降、官僚というものが目立つようになってきて、いろんな人が官僚について言葉を書き連ねてきたが、その官僚制について語られることが最近少なくなってきたとグレーバーは言う。実際、グーグルで「官僚制(BUREAUCRACY)」が本のなかで使われた回数を調べてみると、1970〜80年頃がピークで、それ以降は減っているんだそうだ。

その代わりに増えてきたのが「ペーパーワーク」や「業績評価」という言葉で、これらは官僚的な仕事にともなって起こるやっかい事である。このような言葉が増えているというのは、つまり、いまでは官僚的な仕事は官僚だけがやっているわけではなく、わしらの日々の仕事が官僚的になっていることを示している。会社はもちろん、ちょっとことにさえ、なにかしら官僚的な作業を含んでしまう。というわけで、官僚制がわれわれの日常全てを取り囲んでいることから、逆に見えなくなっている、ということらしい。こうした官僚的な仕事の多くが「ブルシットジョブ」になることは言うまでもない。

こうした官僚的なものというのはそもそも何のだろうか。それはルールなのである。なにかやろうとすると、決められたルールがあって、無駄だと思っても、それに基づいて行わなければならない。官僚とは決められたルール通りに実行する人のことなのだ。

こうしたルール(制度)と官僚は増える一方なのである。たとえそれが規制緩和を目的としたものであっても、その効果を検証するとか、新しい仕事を生んでしまうのだ。こうした現象をグレーバーは「リベラリズムの鉄則」と呼んでいる。

でも、とアナーキストのグレーバーは問うのである。増えるばかりのルールが嫌なら、なぜわしらはなぜルールに従うのだろうか。わしらは、ルールには従うものだ、と思っているようだ。

その理由を問えば、みんながルールに従わないと社会がむちゃくちゃになってしまうからですよ、とか、ルールに従わないと一番困るのはルールに従わないあなた自身ですよ、とかみたいなことを言われそうだ。そして、ルールを守らずあなたがみんなに迷惑をかけるのなら、そのうち警察に通報されるでしょう、とすら言われるかも知れない。

最後には警察? そんな大げさな。でも、最後には警察、という感覚はわしらにはあるのではないか。この感覚こそ、わしらがルールに従う根本的な理由なのだ。

警察や軍隊は国が持っている本物の暴力だ。たとえルールの中に暴力について記載されていなくても、わしらはそのなかに暴力の強制力を感じて、それに従う。このように明文化されていない暴力のことを「構成的暴力」と呼ぶのだという。暴力は常に使う必要はないのだ。そういう可能性を感じさせるだけで十分なのである。こうしてルールの中に暴力は間接的に織り込まれている。

「構成的暴力」はなかなか不思議な暴力である。直接暴力を使わずに、それが正しいと思わせて従わせてしまうところがある。

身近な例では、女性に対する差別だ。いろいろなルールで女性は差別されている。ではなぜその差別に声をあげる女性が少ないのか。そこには暴力が間接的に含まれているから、というのだ。男性で実際に暴力を振るう人は少ない。だが、もし言うことを聞かないと……ということをいろいろ想像させて支配しようとする。この暴力は現実的なものだ。例えば、家父長制(男性中心社会)に女性が対抗しようとすると、その女性がレイプされる可能性が格段に高くなるのだという。

そして、あくまでもこれは君のためだ、ということを信じさせる。例えば、警察というものは市民を守るためにある、と信じている人はたくさんいる。警察の暴力が自分に向かうことが想像できないのだ。実際には、警察の権威に逆らうような行動をとると、すぐにその暴力は現実化する。

「構成的暴力」があるということは、支配する側と支配される側が存在することを示している。支配する側と支配される側にはお互いに対する知識に格差がある。支配される方は支配する方の機嫌を損ねないように注意深く相手を観察し、知識を増やし、相手に合わせる。一方、支配する側は支配される側については無頓着で無知なのだという。

それは、例えば、男性には女性になったら、女性には男性になったら、というテーマで作文を書かせるとすぐに分かるという。女性は男性になったらどうするかという内容を生き生きと具体的に書ける。なぜなら女性は男性をよく観察しているからだ。しかし、男性はぼんやりした内容しか書けない。男性は女性に無頓着だからだ。

つまり支配する側は支配される側に対して理解も想像力も欠如しており、両者の間にはお互いに対する知識の非対称性が大きいのである。ルールを作るのは支配するほうだから、作られたルールが実情に合わないのは当然で、改正すればするほど無知が重なり迷宮化するんだそうだ。(ただし作る方は自分に好ましい内容にするので、その迷宮で苦労するのはそれに合わせる支配される側の方だけなのだが)。そういうわけで無知に無知が重なることが官僚制がどんどん拡大する理由なんだそうだ。

以上が官僚制について忘れられがちな視点に暴力がある、という主張だ。

次に、グレーバーは官僚制が科学技術の発展にも負の影響があると主張する。

官僚制は、新しい発想を求めるような科学技術開発とは相性が悪いとグレーバーは言う。近年、新しい目のさめるような科学技術が誕生しないのは(例えば、反重力の空飛ぶ車がまだ誕生しないのは)、このような技術開発の官僚化が進みすぎているからではないか、とグレーバーは疑っている。科学者が研究ではなく官僚的なペーパーワークに費やしている仕事量を見てみろ、と言う。

というわけで、ルールをやたらと作る官僚制は好ましくなさそうに思える。だが、ここでグレーバーは、一転して、実はわしらはこうしたルールを作るのがとても好きなのだ、と主張するのである。

官僚制というのは機械的なシステムであり、こうした機械的な処理はバシッとはまって機能すると、使用者に興奮すら与えるものだという。

もっとも有名なものは郵便システムなんだそうだ。いまでは考えられないが、19世紀の郵便システムは画期的で、素早く(市内なら1日に何回もやり取りできた)、しかも全国に安く送ることができた。このシステムは登場した当初は人々に熱狂を呼び起こしたのだそうだ。やがてどうでもいい宣伝の郵便が大量に配達されるようになり、今の電子メールのように魅力はどんどん無くなっていったのだが。

このような機械的なルールを好む性質がわしらには確かにあるとグレーバーは言うのである。例えばそれはゲームだ。人間はルールを設けてゲームをする存在なのだ。そして、そもそも社会性というのはそういうものだ。

ただ、これはプレイすることとは違うのだという。プレイは純粋に創造の発露のままに遊ぶことで、じつは創造とともに気ままな破壊をも含んでいる。生活する上では、このような気まぐれな破壊は困ったことであり、人はこれを嫌う。そして官僚制は機械的なルールだが気まぐれを含んでいない。

ルール(制度)は過程と結果が明確で、官僚がそれを機械的に処理するがぎり官僚の人格(気まぐれ)に左右されない透明性を持っており、それが魅力なのだ。だから、官僚制を好ましく思う性質がわしらにはある、とグレーバーはいう。

この透明性は、制度をうまく設計すれば、恣意的な権力から我々を自由にしてくれるかも知れない、と思わせるものがある。だが、いまのところそんな世界はユートピア的な空想にとどまっており、自由にしてくれるはずのルールが実際には我々を縛り、我々は毎日官僚的手続きのペーパーワークに追われているのが実情なんだそうだ。

以上がグレーバーの主張の概要ですが、うーん、どうでしょうか。まあ、権力の持つ暴力とその愚かしさについては、確かにそんなこともあるかもと思うけど、科学技術のブレークスルーが低下していることについては、単純に現在の自然理解の限界が現れているだけなのだと思うけどなあ。反重力的な空飛ぶ車ができないのは、単純に重力の操作がとてつもなく困難だからです。わしは科学技術に官僚的な部分が影響しているのは間違いないと思うけど、それが科学技術停滞の本質的な原因とは思わないな。(参考:「数学に魅せられて、科学を見失う」)

それはそれとして、グレーバーの書く本は、自分の経験した挿話も面白いし、ハッとさせられる内容が多くて、読んでいて楽しい。

★★★★☆

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