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天路の旅人

沢木耕太郎 新潮社 2022.10.25
読書日:2023.8.3

第2次世界大戦末期に密偵として内モンゴルに潜入し、そのまま戦争が終わってもチベットやインドを放浪し、帰国後は「秘境西域八年の潜行」という本を出版した以外は、死ぬまで岩手県で美容関係の卸の仕事を坦々と続けた西川一三の、自身も「深夜特急」で西域を放浪した経験のある沢木耕太郎による評伝。

この本のほとんどの内容は「秘境西域八年の潜行」の内容とかぶる。そういうわけで、もしそれだけなら、改めてこの本を書く必要はなかったはずである。もちろん、あとから出版するものの使命として、オリジナルの原稿から削除された部分を復元するとか、間違いを訂正するとか、他の人の記述との違いを検証するとか、そういう労力はかけている(これはこれで大変ご苦労なことである)。しかし、やはり、沢木耕太郎が関心を持ったのは、これだけ破天荒な放浪を行っていながら、帰国後の西川の人生の坦々さにあるのだろう。

沢木耕太郎は西川が80代の頃に、本人に毎週のように岩手に通いインタビューをおこなっており、膨大な録音が残されている。そのインタビューからも、西川のあっさりした坦々さというのが際立っている。

なぜ岩手県だったのか?―たまたまです。美容関係の店をやっていたのは?―生きていくためです。質問をしてもこんな短い回答が返ってくるだけである。

この坦々さはどこから来たのだろうか。

西川はいちおう日本の密偵として西域に潜入し、もちろん愛国心もあるし、天皇への敬愛も深い普通の日本人なのだが、なにより西域を旅したかったという個人の思いのほうが強かったようだ。だから、戦争が終わっても放浪を続けたし、資金がなくなっても自分で生活費を捻出しながら、ほとんどお金を使わないような方法で旅を続けている。八年の潜行だったが、本人はもっと旅を続けるつもりだったのだ。旅の仕方も言葉を覚え、現地の人に溶け込んで、現地の人に混じっての旅である。西川は、すべてを自分一人でなんとかしながら旅を続けたのだ。

こうして西川は、どこに行っても生きていけるという自信を深める。生きていくにはそんなにたくさんのものは必要ないのだと悟る。

日本に帰国してからも、まずは自分の経験を文字で記録することと、あとの人のためにそれを出版することだけが願いで、すでに家族ができていたので、あとは坦々と生きたのだ。

沢木耕太郎のインタビューでは、沢木が質問するばかりで、西川の方は沢木のことに関心を持つことはほとんどなかったという。ところが沢木がアフガニスタンのことを話すと、関心を示して、西川の方から質問をしている。西川もアフガニスタンに入りたかったのだが、果たせなかったからだ。まだ旅を続けたかったのだろう。

チベットに入ったとき、チベットの僧院でラマ僧になるための修行をしていた。そこでもラマ僧の修行の毎日は坦々としたものだった。旅を続けたかったのでそこを抜け出したが、そこでのそんな生活に不満はなかったのだ。

家族ができて、たまたまの縁があった岩手県で店を持って、坦々と過ごしたが、それは本人には、僧院でおこなったラマ僧の修行の延長のようなものだったのかもしれない。

沢木はこうした生活を胡桃(くるみ)の殻のような生活と表現している。わしは以前にも、沢木が同じ表現を使った文を読んだことがある。高齢のタクシー運転手の話だった。沢木はこんな胡桃のような人生が好きなのだろう。誰にも頼らず、自分だけを頼りに坦々と過ごす人生を。

**** メモ ****
忘備録のために、西川一三がたどった経路を記しておく。
・1918年山口県地福(じふく)に生まれる。
・1936年中学卒業後満鉄に入社。
・1941年満鉄を退社、興亜義塾(こうあぎじゅく)に入学。内モンゴル人と交わる訓練を受ける。
・1943年、酒の席でボーイを殴り退学処分になるが、二度と酒をのまず異民族を殴らないとの誓いをして、卒業証書を受ける。張家口大使館の次木一(なみきはじめ)に調査員に採用されて、「西北シナに潜入しシナ辺境民族の友となり、永住せよ」との命令を受け、6千円の準備金を得る。
・1943年9月、蒙古人ラマ僧ロブサン・サンボーを名乗ることにして、日本の国境にあるトクミン廟を出発、国境を突破して1ヶ月後、寧夏省の定遠営に着く。バロン廟で過ごす。
・1944年9月、バロン廟を出発し、星海省西寧のタール寺に着く。
・1945年2月、タール寺を出発、星海省シャンに着く。
・1945年7月、シャンをチベットのラマに向けて出発、煩悩の数と同じ108日目にラサに到着。日本敗戦の報を聞く。ラマを出てシガツェのタシルンポ寺に移る。サキャ寺に旅行に行くなどして過ごし、12月に日本敗戦を確認するために、釈迦が悟りを開いたというブッダガヤ巡礼を口実にインドを目指して出発、ザリーラ峠を越えてインドに入り、カリンポンに着く。興亜義塾の同窓の木村肥佐生と遭遇、日本敗戦を確認する。さらに詳細な情報を求めてカルカッタを目指す。カルカッタでようやく日本が負けたことを認識して、密偵を廃業する。お金がなくなったので、担ぎ屋をすることにして、インドとチベット、ネパールを往復するが、無理をして凍傷になってしまう。
・1946年春、カリンポンからラサへ行くと、デプン寺でラマ僧としての修行を開始する。
・1947年、木村肥佐生が英国情報部の依頼を受けて、中国の動きを探るために、成都の近くの西康省の省都、打箭路(だせんろ)を目指す旅に、西川も同行する。打箭路までは到達できず、チャムド、玉樹を経由して、7ヶ月後にラサに帰還。途中身ぐるみはがされて、餓死寸前になる旅だった。カリンポンに移り、チベット語の新聞社で働く。
・1948年、密偵でなく自由の身で放浪を続けることにして、楽器を鳴らして歌う御詠歌(ごえいか)の技術を3ヶ月でマスターして、大道芸のラマ僧となり、インド放浪に出る。ブッダが悟りを開いたブッダガヤ、修行した入滅したクシナガラ祇園精舎をめぐる。
・1949年、アフガニスタンへ行こうとデリーの北のアムリトサルに行くが、印パ戦争が勃発してパキスタンを通れなくなったためアフガニスタン行きを諦め、ネパールのカトマンズへ。さらにボダナート(大塔村)のラマ廟で過ごす。2ヶ月後カリンポンに戻る。チベット語の辞書を手に入れるためにアッサムの鉄道工事の仕事に従事する。ここでビルマのグルカ兵と知り合い、ビルマに潜入することを計画する。木村肥佐生と再会するが、鉄道が完成した頃、木村肥佐生がインド警察に逮捕され、西川のことを話したため西川も逮捕される。
・1950年5月、カルカッタから船で日本へ強制送還。6月、日本着。GHQに出頭させられ、1年間に渡って、西域の聞き取り調査。その後「秘境西域八年の潜行」を執筆、完成するも出版の目処は立たなかった。
・1958年、知り合った商事会社に誘われて、石川ふさ子と一緒に岩手県水沢に移住、家庭をもつ。
・1967年「秘境西域八年の潜行」芙蓉書房から出版。有名になった西川に会社を乗っ取られると思った商事会社の社長に首にされ、独立し、「姫髪」という卸の店を開く。正月以外の364日を働く生活を続ける。
・1988年、東京放送で西川の旅のドキュメンタリーが放送される。
・1990年、中公文庫版が出版される。
・2008年2月、89歳で死去。

木村肥佐生(「チベット潜行十年」という著書がある)が捕まったときに西川のことをバラしたのは、西川も日本に帰りたいだろう、と思ったからだそうだ。西川は、自分の意思も確かめずに勝手にやったとして非常に憤慨している。西川の木村評は、「自分一人で旅のできない人」だそうだ。日本に帰ってきてからは、木村の方は帰国後もチベットなどとの交流事業に携わり、さらには大学の教授にもなっていて、坦々と岩手で暮らした西川とは対照的だ。

★★★★☆

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