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個人投資家目線の読書録

スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生

福原顕志 文藝春秋 2021.11.20
読書日:2021.3.27

スノーボードというスポーツがなかった頃、スノーボードというものを構想し、そしてスポーツとしても事業としても成功を収めたジェイク・バートン(1954−2019)の評伝。

こういうのってたいていは翻訳が多いのだが、著者の福原顕志さんはもちろん日本人で、アメリカ在住のノンフィクション番組を作っている人なんだそうだ。日本人が書いてくれたおかげで、日本でのスノーボードの普及の話もたっぷりと書かれている。ジェイクと日本の関係も深いらしい。もちろん、北京オリンピックで金メダルを取った平野歩夢も出てくる。

出版は北京オリンピックの少し前だし、ジェイク・バートン自身も2019年に亡くなっているので、北京は出てこない。この本は平野歩夢が2018年の平昌オリンピックで銀メダルを取ったところから始まる。銀メダルのお祝いに、カナダの雪山の山頂にヘリコプターで運んでもらって滑るヘリボーディングをプレゼントしてもらったそうだ。

わしはスポーツにあまり興味がないので、ジェイク・バートンがスノーボードというスポーツを構想して、ボードを開発しようと決意するというその熱意がいまいちよくわからない。しかし、スポーツというのは最初は遊びから始まるというのは理解できる。どんなスポーツも最初は他愛ない遊びだったのだ。それがたちまちビッグビジネスになってしまうというのが、現代ということらしい。

ジェイクが最初にスノーボードのようなものに触れたのは、子供の時のおもちゃだったそうだ。最初はサーフィンがしたかったらしい。住んでいたのはニューヨークのロングアイランドだったので、海がそばにあった。しかし親がサーフボードを買ってくれなかったので、自分の小遣いでスナーファー(スノー+サーファー)というサーフィンのような板で雪の上をすべるおもちゃを10ドル以下で買ったのが最初らしい。スナーファーで遊んでいるうちにこれがちゃんとしたスポーツになることを確信する。それを誰もしないのが不思議だった。

やがて、コロンビア大学を卒業して投資銀行に入ったが、どうも性に合わない。そこで23歳の1977年に投資銀行をやめて起業するのである。もちろん、事業はかねてから温めていたスナーファーをスポーツにするというビジネスだ。

うーん、すごいね。いろんな新しい遊びを考える人はたくさんいるだろうが、ビジネスとして結実するのはどのくらいだろう。わしはすぐに、新しいビジネスは新しいテクノロジーと結びつくという発想をする人間だが、スノーボードの場合、新しい新技術というのはそんなにないんじゃないかと思う。材料も製造工程も最初はスケートボードやスキーの技術の転用になってしまうのだから。そうすると、売りはクールと表現されるようなスタイルにあったとしか考えられない。スキーとは違うということしか取り柄はなかったんじゃないか。

ともかく、起業したジェイクがまずやらなくてはいけなかったのは、使えるスノーボードを作ることだった。いまのところおもちゃのスナーファーしかないんだから。で、自分で作り始めたのだ。もちろんそんな経験はまったくなかった。最初はとりあえず板を買ってきて、自分で切ってみた。うーん、本当に感心する。なんの技術もないのにとりあえずやってみるんだから。それで、ニューヨークにいては実際にすべって試すことが難しいので、すぐにバーモント州に引っ越す。

いろいろ試したが満足のいくボードができずに、カリフォルニアでサーフボードの作り方を学んだがそれにも納得できず、2年間で100本もの試作品を作る。その100本目が納得いくもので(スケボーの技術をつかったもの)、この100本目が最初の製品になる。

この試作の2年間は本当に孤独だったそうで、朝、目が覚めても何もする気が起きないこともあったそうだ。どうもこういう孤独の期間を経ない起業家というのはあまり知らないね。ちなみに個人投資家も、自分のスタイルが確立するまではかなり孤独です。というか、確立しても基本は一匹狼なので、孤独なんですが。

やっと製品ができたので売り始めるが、1年目はたった350枚しか売れなかったそうだ。従業員を雇っていたが(しかも親戚や知り合いだったらしい)、なくなく辞めてもらって、次のシーズンはひたすら在庫をかかえてあちこちのスポーツショップに売り歩く。夏の間はアルバイトをして、なんとか会社を潰さずにすんだ。

2年目は倍の700枚が売れたので、確信する。このペースで増えていけば、いつかかならずブレークすると。新しいものはブレークするまでに時間がかかるということだ。でも年間の成長率が2倍というのははっきり言ってものすごいです。人によるだろうけど、投資の場合20%あれば上出来なんじゃないですか? この後、本当にずっと2倍のペースで伸びていくわけで、すると、5年で売上が1万枚に達することになる。このくらいになればようやく軌道に乗ったといえるレベルじゃないかな。長かったけど、なんとかジェイクは厳しい時代を乗り越えることができた。乗り越えたあとももちろん倍々ゲームだった。

厳しい時代では、高校生のアルバイトがバイト代をあげてくれと言ったら、ジェイクが泣き出したという話も残っている。そのくらい立ち上がるまでは厳しかったのだ。これはシュードッグで、ナイキの創業者フィル・ナイトがすべて事業にお金を突っ込んでいて、事業自体はうまく成長していたのに、現金が手元になく、ランチ代すらなかったという話を思い出す。

このころ、日本人の小倉一男という人がスノーボードを気に入って、いきなり100枚注文してジェイクを驚かせるということがあった。小倉はのちにバートンジャパンの社長になる。日本とジェイクの関係は最初から良好だった。

その後、スキー場から締め出しをくらって妥協する過程とか、競合が出てくる過程とか、競技でスタープレーヤーが出てきて、そのスターが若くして亡くなってしまうとか、いろいろ起きるんだけど、ともかくスノーボードはスポーツ競技として確立して、オリンピックの競技にもなる。この早さはすごいけど、倍々で進んでいけば、数十年後にはすごいことになるから、これは理解できる。オリンピックでほとんどの選手が乗っているスノーボードはもちろんバートンブランドだ。まあ、この辺のうまくいってからの話のほうが普通は面白いのかもしれないが、個人投資家の視線としては創業時の苦労のほうがぐっとくる。

ジェイクの晩年は病気との戦いだった。まずは2011年に僧帽弁逸脱症という病気の手術を受け、つぎにガンにかかる。ところが、がんを克服したと思ったら、2015年、今度は全身が麻痺するミラー・フラッシャー症候群という珍しい病気にかかってしまう。それもなんとか克服したが、2019年にガンが再発してしまう。もう、ジェイクには病気と戦う気力は残っていなかった。バートンは年商700億円の規模に大きくなっていたし、十分やったという思いもあったのだろう。2019年11月20日にジェイク・バートンは、尊厳死を選択し、家族に見守られながら息をひきとった。

ジェイクは結局、上場は選択しなかった。従業員や選手たちと家族のように関わり合いたかったのだろう。こういう創業者の意志はなかなか引き継ぐのが難しいけど、たとえ上場しても、気さくな企業文化が続くことを祈念いたします。

★★★★☆

 

 

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