カビール・セガール 早川書房(文庫版) 2018年10月15日
読書日:2019年9月25日
わしはときどき想像してみることがある。お金を見たことも使ったこともない未開人をいきなり現代社会に連れて行ったとして、その彼/彼女は、どのくらいでお金が使えるようになるだろう。わしの想像では、その者はたちまちお金というものを理解して、数時間後には使えるようになっているのではないだろうか。
たぶん、何百年も前には本当にそんなことがヨーロッパの港町なんかで起こったのではないかと思うが、調べたことがないのでよくはしらない。だから、これはわしの想像でしかない。
もしも本当にこんなことが起きるとしたら、きっとお金というのは人間の本性に深く根ざしていると言えるだろう。貨幣に非常に近い思考を人間は普段からしている、ということだと思う。
人間の本性に根ざしたそれは何かというと、信用のやり取りだと思う。人間は常に周囲の人間と信用の貸し借りをカウントしているのだ。誰かに親切にしてもらったとする。するとチャリンとわしの心の中で信用の負債がカウントされる。それはいつか返さなくては、とわしは思う。そして何かの機会があるとその人に親切を返し、お礼を言われると、「いや、日頃お世話になっていますから」とかなんとか言うのだ。
そうすると、負債を負うのが嫌なので、先に親切にして、周囲のみんなに負債を負わせ、自分は債権をたくさん持ったほうがいいと思うかもしれない。つまりお金持ちである。いつもみんなに親切にして、どんどん信用の負債を負わせるのだ。そうするといつか窮地に陥ったときに、みんなは自分の味方をして、負債を返してくれるのかもしれない。
こういうやりとりを日頃人間がしているとすると(きっとしている)、初めてお金を見たときに、すぐにこの信用の貸し借りを可視化したものがお金だ、と気がつくのではないだろうか。まあ、信用の可視化という言葉では理解はしないだろうが、お金の考え方自体はすぐに飲み込めるはずだ。そしてきっと素晴らしい発明だと思うだろう。
というようなことが、この本に書いてあるらしいので、読んでみたのである。長い前ふりだった。
この本は投資銀行に務める著者がお金について不思議に思い、いろいろ文献を読んだり、実物を見るために世界中を巡ったりしたことをまとめたもので、とくに、お金に起源についてのみ書いたものではない。そもそもこの本は生物の物質的な交換の話から始まるのだ。いくらなんでもさかのぼり過ぎだろう。
で、わしが読みたかった話は、第1部の第3章「借金にはまる理由 債務の人類学」に書いてある。
貨幣の起源として普通語られるのは「物々交換」だ。だが、この本によれば、物々交換は非常に稀で、知った人との間ではなく、他人同士の間で行われるという。もう二度と会うことはないだろうと思われる人との間で行われるもの、なんだそうだ。
考えてみればいつも会っている人たちの間では、いちいち物々交換ですべての取引をするなんて馬鹿げてる。そのへんはお互い様で、貸し借りができるはずなのだ。つまり信用なのである。
で、歴史を振り返ると、どうもお金が誕生する前に債務があったらしい。メソポタミアでは大麦などを貸して、それを帳面につけ、利子まで取っていた。お金が誕生する以前に、貸したという帳面があった。つまり債権であり、これがお金の起源になるという。このへんは詳しくは、どうもグレーバーの「負債論:貨幣と暴力の5000年」という本を読まなくてはいけないらしい。
債権から貨幣が始まるというのは、20世紀に始まった考え方なんだそうだ。この考え方、じつに自然だとわしには思えるのだが、そこまでたどり着くのに、人類はここまで時間がかかったのだ。分かってみれば簡単なことはたくさんあるが、たぶん貨幣もそのひとつだ。
このあと、貨幣について、ハードマネー(金貨など)とソフトマネー(ペーパーマネーやビットコインなど)の話とか、いろいろ続くんだけど、このへんはよく知られた話だから、ちょっと退屈だった。ジョン・ローのミシシッピ株式会社の話とか。突っ込みどころ満載のこの話ははじめての人には楽しめると思う。
第3部はお金と宗教との関係で、これは退屈なのかと思ったら、ちょっと考えさせられた。著者によれば、世界的な宗教が誕生したところは、貨幣経済が発展した地域なんだという。そして、そういう世界的な宗教の全ては、お金に対して否定的なんだという。
仏教もキリスト教もイスラム教もそうである。これはどうしてなんだろうか。考えてみれば不思議である。
純粋に信用の貸し借りのときには、親切を押し売りするわけにはいかない。「いいの、お互い様じゃないの」などと言って、相手に負担をなるべくかけないようにしないと、「なんだ、あの人は」となって逆効果になるだろう。信用を得るには傲慢ではいけないのである。
ところが、信用を可視化したお金を貸す場合、貸す側は相手を見下し、傲慢である。借りる側はどこか卑屈になり、自尊心を損なう始末である。これはぜんぜん人間的ではない。これでは天国に行けなくてもしょうがないのである。
親切の信用なら、物以外でも、いくらでも貨幣となる親切を発行できる。ギブギブギブの世界で、そのうち少しでも自分に返ってくればめっけものである。しかし、お金の負債は、確実に返してもらわないと、ついでに利子も払ってもらわないと成り立たない世界である。ぜんぜん人間的でない。
だから親切の信用のように、お金は誰にでも十分に巡るように制度設計されなければならない。お金は滞留せずに、どんどん回ることで、宗教から糾弾されなくてもすむようになるんじゃないだろうか。国家が強制的にお金が溜まってるところから取り上げ、人々に配ったほうがいいのかもしれない。ん? これはベーシック・インカムの世界かしら?
★★★★☆
貨幣の「新」世界史──ハンムラビ法典からビットコインまで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)