トーマス・セドラチェク 訳・村井章子 東洋経済新報社 2015.6.11
読書日:2022.5.13
経済学は倫理学から出発したのに、そのルーツを忘れて数学のみを語る学問になってしまっているが、倫理という魂をもう一度取り入れ、人の限りない欲望を抑えるような学問にならなくてはいけないと主張する本。
NHKのドキュメンタリー「欲望の資本主義」シリーズで有名なセドラチェクだけど、もしかしたらこの企画自体がこの本を出発点にしてるんじゃないかと思えるくらいに、番組のテーマとぴったりシンクロしている。
それにしてもセドラチェクってあごひげをはやして貫禄あるけど、生まれは1977年でいま45歳なんだそうだ。すると、この本を出したのはまだ30代のはずで、むちゃくちゃ早熟な知性だということが分かる。24歳でチェコのハベル大統領の顧問になっているくらいなんだから、それも当然なのかもしれないけど。
では、セドラチェクの主張を見ていこう。
セドラチェクがやろうとしているのはメタ経済学というもので、経済学を越えて神話、宗教、哲学などと融合して考えていこうという学問だ。セドラチェクによれば、経済学は現在ではまるで物理の論文のように数式だらけだが、その起源は古いという。数式だけの論文からはわからないが、経済学には説明不可能な信念や信仰が核になっており、その経済学の魂の起源は古いというのだ。
古いってどのくらい? セドラチェクによれば、文献(歴史)が遡れる限り古くまで(笑)。でも、なぜ経済学の魂はそんなに古くまで遡れるのだろうか。
経済学の起源は倫理学だという。それは経済学の始祖と言われるアダム・スミスがもともと倫理学者で、経済学の「国富論」以外に「道徳感情論」という倫理学の本を書いていることからも分かる。そして倫理学というのは良い悪いの価値判断のことで、良い悪いの価値判断は人類のあらゆる物語に出てくるからだ。
良い悪い、つまり善悪についてだが、哲学的に善悪を議論をすると非常にややこしいことになる。しかしここではもっと単純に考えていい。良いとは自分よりも社会が良くなる方向に考えることであり、悪いとは利己的で自分の利益だけを考えること、と考えればいい。わしは日本人だから、西洋的な絶対的な善悪の基準を考えるような発想は苦手だが、これならなんとかなりそうだ。そして個人と社会の利益の間には無限のグラデーションが存在する。
扱っている物語は、ギルガメッシュ叙事詩、旧約聖書、古代ギリシャ(ストア派、エピクリロス派まで)、キリスト教(新約聖書、アウグスティヌス、トマス・アキナス)、デカルト、マンデヴィル、アダム・スミスなどである。
このような個々の物語の議論を通じて善悪のグラデーションを確認するとともに、経済学の核となる説明不可能な信念の起源が昔からあることも確認する。
このなかでもっとも重要なのは、欲望、それも強欲と言ってもいいくらいの強力な人間の性質についての物語だろう。欲望があらゆる物語に見つかることは容易に想像できる。動物にはその時その時の欲求があるだけだが、人間には人間特有の欲望があるのだ。
セドラチェクによれば、旧約聖書の創世記で、楽園で何不自由なく幸福に暮らしていたアダムとイブが知恵の実を食べたことは、本来必要のないものを欲するという人間の欲望を表しているという。これは新しいことを知りたがる好奇心という名の精神的な欲望だ。そして知恵の実を食べたアダムとイブは自分の性器を隠す衣服を得たが、これは人間は物質に囲まれた生物という不自然な存在であることを表しており、人間の物質に対する欲望を表しているという。つまり人間は精神的にも物質的にも貪欲になるように運命づけられているというのだ。
この欲望というものはとどまることがない。物がいくらあっても満たされず、いくら新しい話を見聞きしても満足できない。まさしく、ドキュメンタリー「欲望の資本主義」シリーズのキャッチフレーズ、やめられない止まらない、の言葉通りなのだ。(ほら、番組でも、りんごを食べている絵が何度も出てくるでしょ?)
セドラチェクによれば、このようなコントロール不能の欲望こそが現代社会のリスクであり、制御しなくては将来に大変な危機が訪れるという。そのなかで最大のリスクは、人類史上最大の規模に膨れ上がった政府の借金だという。
では欲望はコントロール可能なのだろうか。
人間の貪欲な欲望をどのようにコントロールするかという物語にはやはり古い歴史があり、制御する必要がないというエピクロス派もいれば、物質的なものはなければないほど自由になるという現代のミニマリストのようなストア派もある。
ところが経済学は、自己利益を追求することは市場の見えざる手により社会全体のためになる、という説明をするだけで、それ以上の価値判断を停止してしまっている。(この「市場の見えざる手」「神の手」という考え方も説明不可能な、ブラックボックスの信念の類で、昔の物語に起源がある)。
価値判断を停止しているとしても、経済学がどの程度の欲望ならば社会にとっても良いかということを理論的に示せれば問題はないだろう。しかし、経済学ではそれが不可能だという。なぜならば経済学はトートロジー(同語反復)のなんでもありの論理体系になっており、その答えを見つけるのが原理的に不可能な構造になっているからだ、とセドラチェクは説明する。
どういうことか。
経済学では欲望について効用という言葉を使う。経済学の目標は効用を最大化する学問だということになっている。効用の定義は次のようなものだ。
効用:財やサービスの消費から得られる満足や快楽のこと
しかし、効用、満足、快楽を入れ替えても同じことなので、結局、
効用:財やサービスの消費から得られる効用のこと
と言っているのと同じでトートロジーである。これは
効用は効用を増やす活動を通じて得られる
と言っているのと同じである。この定義はまったく意味がない。消費を限りなく貪欲に求める行動も、逆になるべく消費をしないことに価値を見出すミニマリストの行動も、何をしようがそれが本人にとっていちばん効用が高いことになり、結局、
人間はしたいことをする
ということを言っているに過ぎないからだ。これは常に正しく、なんでもありで、なんら価値判断をしていない。中身がなく空虚なのだ。
セドラチェクはすべての理論は根本を探ればトートロジーとなり空虚なので、信念や信仰が欠かせないという。だから、セドラチェクは、経済学はルーツの倫理学を取り込んで、そのような価値判断をできるような学問に発展しなければいけないというのだ。
なるほど。でも、どうやって?
しかし、セドラチェクの議論はここで終わり、どうすればいいかという中身については後世の経済学者に丸投げなのである。
え〜っ? なんといいましょうか、セドラチェクはメタ経済学を紹介して、その視点からものすごく饒舌に面白くためになることをいろいろ語ってくれていますが、その結論は経済学に負けず劣らず空虚なのです。
うーん。まあ、そりゃそうだよね。それはこれからみんなで考えて行くべき話だから。その課題に果敢に挑戦しているらしいマルクス・ガブリエルに期待かな。
この本は原著が2009年に出たようで、その後10年以上経っているから、セドラチェクのその後の著作もチェックしてみるべきかも。あまり期待できない気がするけど。
***** メモ1 *****
セドラチェクの議論で、納得できない部分がある。それについてここにメモとして残しておくことにする。
セドラチェクは政府の負債が最大のリスクで、景気のいいときに財政赤字を黒字にして負債を減らして次の景気後退のときに備えるべきだという。このまま負債を抱えたまま次の景気後退になると、大変な厄災が発生するといい、エジプトで豊作の年の作物を保存して不作の年の飢饉に備えた話を紹介している。
でもねえ、食料の話なら分かるんだけど、お金になるとちょっと違うんじゃないの? だってお金はすべての(国中の)負債と資産を足すとゼロになってしまうんだから。マクロ的には政府の財政を黒字にして負債を減らすと、単に民間企業や家計の負債が増えるだけなんじゃないの? つまり負債が政府にあるか民間にあるかだけの違いで、国全体の負債が減るわけじゃない。
国の借金についていろいろ言われるが、わしは一度、日銀が持っている国債を政府に納めて借金をチャラにすることをやってみたらいいんじゃないかと思う。こうすると何が起きるかというと、チャラになった分だけ日本経済が小さくなる、シュリンクするということだけど、何も起こらないんじゃないかしら。まあ、1000兆円とGDPの2倍以上をいきなりシュリンクさせてしまうとなにか悪いことが起きそうだから、1%の10兆円くらい試しにシュリンクさせてみたらどうかしら。そうしたら、負債がどういう働きをするか分かるんじゃないかと思うけど。
このチャラは一種の徳政令なのかもしれないけど、徳政令についてはセドラチェク自身がこの本のなかで、50年ごとにヘブライ人がすべての負債をチャラにするということを書いているんだから、どうしてそれを主張しないのかしら?(108ページ、ヨルベの年の大恩赦)。リセット、いいんじゃないの?
ところで、日本では成長もしないけど破綻もしないという状況なんだから、強欲に反対し、成長のための成長に反対しているセドラチェクさんの理想が日本で実現しているってことにはならないのかしら。みんな質素に暮らしているよね。きっと日本政府の巨額の負債がそれを認めるためのネックになってるのでしょうね。
***** メモ2 *****
セドラチェクが過去の物語で検討した経済学の魂は以下の通り。
1.強欲 (本文で議論した)
2.進歩 古代では時間の流れは循環的だった。ヘブライ人が直線的な時間の概念を導入した。やがて時間とともに成長するということになり、進歩のための進歩という概念が生まれた。経済学では成長のための成長という考え方になり、強欲と同じようにセドラチェクはやめるべきだと主張している。
3.善悪 セドラチェクは「善は報われるか」という判断基準を示して説明をしているが、実際には利己的か利他的か(もしくは自分以外の社会を考えるか)という議論のように見えるのだが。ともあれ、その順番は以下の通り。利他的から順番に利己的に進むと、1)イヌマエル・カント、2)ストア派、3)キリスト教、4)ヘブライ思想、5)功利主義、6)エピクロス派、7)主流経済学、5)マンデヴィル。
4.市場の見えざる手とホモ・エコノミクス 個人の悪を公益に使うという話は、すでにギルガメッシュ叙事詩にあるという。野生のエンキドゥ(悪)を飼いならし、社会のために活用している。ギリシャでもキリスト教でも悪を根絶やしにすることは公共の益にならないとされている。結局、悪は善なしには単独で存在できない、善の従属物だという。経済学から倫理性が失われたのは、経済がすべての土台と主張したマルクスの影響だという。
5.アニマルスピリット 定義自体が不明。「人間を駆り立てる何か」と一応説明されるが、どうやらセドラチェクはこの起源を見出すのに失敗している感がある。不合理な衝動ならきっといくらでもあると思うのだが。
6.メタ数学 ギリシャの数への崇拝とデカルトの機械論に起源を見つけている。しかしもちろん、数学の語る世界だけでは十分ではないとして、倫理学を導入するという議論になる。
7.真理の探求 哲学者も真理を追求したし、宗教家も真理を追求したし、科学者も真理を追求したが、経済学はそのどの考え方の影響も受けた、と言いたいらしい。
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