平野啓一郎 講談社 2012.9.20
読書日:2023.12.8
作家の平野啓一郎が、人間とは「個人」という分けられないひとつの人格ではなく、相手によって別の人格がたち現れる「分人」の集合体であり、こう考えることで多くの人間関係が理解でき、悩みも解決すると主張する本。
相手によって自分の態度が変わる(変える)ことは誰でも経験していることであるから、分人が存在することには特に違和感はない。しかし著者の主張は、ひとりの特定の人格をもつ個人がいろいろな側面を見せている、ということでない。そうではなくて、ひとには特定の人格という核になるものは存在せず、その時どきに見せているいろいろな側面自体がひとつひとつの独立した人格である、と主張していることである。これは新しい。
もうひとつ新しいのは、その分人は独立して存在するのではなく、必ず相手がいて、相手との相互作用によって立ち現れてくるのであり、最初から存在しているわけではなく、さらにいうといつも存在しているわけでもない、ということである。
このように発想すると、なにが違うのだろうか。
まずは、本当の自分探し、ということは意味がないということである。自分になにか根本的な核があると考えるから、探せば見つかるという発想になる。しかし、そもそもそのような核は存在しないのであれば、探しても無駄である。
次に、人間関係で、相手も自分を相手にしているときだけ存在する分人であるというと考えることができる。たとえば相手が嫌いでも、嫌いになっているのはその人全体でなくではなく、私を相手にしている分人だけ、と解釈できれば、その人全体を否定する必要はない。逆に、相手を好きになっても、好きになったのは相手の全体ではなく、自分を相手にしてくれている分人だけ、と考えれば、嫉妬や独占欲を抑えられるかもしれない。
さらに、変わっていく自分を許容できる。分人は相手があってのことであるから、その時付き合っている人間関係によって、存在する分人やその割合は変わってくる。これはつまり自分が変わっているということである。もしも、自分には変わらない個人の核があるという発想なら、相手が変わっても自分は変わらないということになるが、分人の集まりなら相手が変わると自分が変わっていくのが当然であるから、許容できる。
このように分人という発想を取り入れると、人生の変化に柔軟に対応できる。
わしが思ったのは、これは量子力学の発想そのままである、ということだ。量子力学では、粒子のそれぞれに本質的な属性(性質)があるという発想はしない。ただ別の粒子と相互作用したときに、相手との関係で特定の性質が現れるだけ、という発想をする。相互作用していないときには、その存在すらあるともないとも言えない状態になる。
平野啓一郎が量子力学に詳しいとは思わないが、文人の平野がいろいろ考えた結果、結局量子力学と同じ結論になるというのは、興味深いことではないだろうか。
★★★★☆