「新しい哲学入門」では、一見哲学の問題のように見えて、哲学の問題にならないもの、問題として意味がないもの、についての話だった。
この土屋さんの講義を大学で受けていれば、いろんな問題に悩まなくても良かったのに、と正直に思う。
20代のころ、わしは「人生に意味があるのか」ということに悩んでいた。このとき、意味があるというのは、自分でこう生きたいとか、こういう意義があるとか、そういうその人個人の主観的なことではなくて、なにか客観的、物理的な意味があるんだろうか、ということだった。
そして、あるとき、「ああ、そんな意味は特にないんだ」ということをはっきり自覚したのである。動物も、植物も、生き物は生まれて、生きて、ただ死んでいく。そこに意味はない、とはっきり自覚した。
こんなことを20代の後半にようやく悟るとは、なんとも凡庸の極みではあるけれど、まあ、ともかく、それまでは、もしかしたらなにか意味があるのではないか、と漠然と思っていたのである。
で、そう悟ったときには、わしは非常に興奮したのである(笑)。これはものすごいことだと(爆)。
というような状況で、そのころ、会社でおしゃべりしていた女の子がいて、その子はある時こう言ったのである。
「わたし、人生に意味があると思うの」
わしはすぐに、人生に意味はない、ということを得々と説明したのである。いきなり否定されて、その子の顔が微妙になったのはもちろんである。
しかし、「意味がない」という表現は間違っていた。「新しい哲学入門」ふうに言えば、「問題として成立しない」とか「意味があるともないとも回答できない、不定である」とか、なにかそういうふうに言わなければいけなかったのだ。
そして、この子のいうことは単なる意見の表明だから、ただそんなふうにただ聞いてあげればよかったのだ。(そりゃそうだ(笑))。
なお、このことは「嫌われる勇気」にも書いた。だから、その後のことも少し述べよう。
べつにこんなことでわしらの関係が壊れることもなかったのだが(特に深まることもなかったが)、そのころわしは投資を始めたばかりで、いろんな投資方法を試していた。ある時、雑誌にヨーロッパの新規公開企業のことが載っていた。いまでは信じられないことだが、わしはその記事を読んだだけで、投資しようと決意したのである。たぶん、海外に投資してみたいと思っていたところだったのだろう。経験してみたかったのだ。
わしがそのことを話したら、その子も「私も投資する」というではないか。そして本当に5万円を持ってきて、これを投資して頂戴、と言ったのである。
ところが、この投資は案の定、失敗だった。利益が出ないまま、どんどん株価が下がり、しかも新規の株を発行して第3者に割り当てたりして、投資したお金はあっという間に100分の1ぐらいになってしまった。わしの投資歴の中でも最悪である。海外企業で、あまり情報が得られないという状況も手伝っていたが、そもそもこのころは損切りも下手だった。
じつは、この会社自体は、アラブのファンドのお金を注入して、いまも生きている。しかし、最初に投資したわしらの株は減資され、ほぼ0になってしまった。
数年後、別の部署に異動になった彼女に結果を知らせて謝った。そして、アラブのファンドが入るみたいだから、もうちょっと様子を見てみようかと思う、と答えた。でもどうにもならなかったのはもちろんだ。
それから15年後、わしは一通のメールを受け取った。15年前の5万円を返してほしい、という彼女からのメールだった。彼女の5万円は、実際には数百円ぐらいになっていたが、わしはこころよく元本の5万円を返却した。
たぶん、ずっとこの5万円が彼女の心に残っていたのだろう。彼女は他の人との関係は保っていたが、わしとの関係は断っていたからだ。なので、彼女がいまどうしているかわしは知らない。
わしは理解した。他人のお金を預かってはいけないと。それをやっていいのはバフェットだけだ。バフェット以外はそんなことをしてはいけない。哲学的な議論は人間関係を破壊しないかもしれないが、お金は破壊するのである。そしてそれは5万円で十分である。