キム・チョヨプ 訳・カン・バンファ ユン・ジヨン
早川書房 2020.12.15
(ネタバレあり。注意)
1993年生まれのキム・チョヨプが2017年の18歳のときに出した、かなり衝撃的なSF短編集。
これはもしかしたら最近読んだSF短編集の中でいちばん面白かったかもしれない。圧倒的な傑作「息吹」を除けばだけど。でも、あれは表題の「息吹」以外は質にばらつきがあったように思う。でもこの短編集はどれも面白かった。
作者が工学系の学生なだけあって、科学的な知識に問題はない。意外な科学技術はほぼ出てこないし、予想可能な科学技術の進歩(空想、スペキュレーション)の範囲内で描いている。だからここで描かれた世界はある意味、近未来である。つまり、この本は科学技術的な発想力で勝負をしているわけではない。
素晴らしいのは、そういう未来の科学技術の結果起きる、人間の人生に与える影響の切り取り方なのである。それがとても詩的なのだ。わしはこの本を読みながら、レイ・ブラッドベリを思い浮かべた。
ちょっと具体的に見ていこう。
例えば、「館内紛失」。
人間の意識をデジタル上にアップロードするというアイディア自体は特に目新しいものではない。でも、死ぬときに人間の意識を記録としてアップロードすることが義務化された世界で、自分の存在を完全に消したいことを望む場合、どうしたらいいのか。こうして、ある女性のアップロードされた意識が記録されているはずなのに、どこに保管されているのかわからなくなるという、失踪事件が起きる。
その失踪した意識を探し出そうというのが、その女性を嫌っていた娘なのである。母親の意識を探そうとする中で、娘は母親のことを理解するようになる。果たして、母親の意識を見つけ出したとして、母親の意識のコピーであるそのアップロードされた意識に、自分の気持を伝えたとして、それは意味があることなのだろうか。
というふうに、あるアイディアにさらにひとひねり、ふたひねりして、人生の一断面を切り取るように物語が構成されている。
まあ、このくらいのひねりは小説家だったら当たり前、と思われるかもしれない。でもその感じが意外性を狙ったものというよりも、物語を深める方向に作用していてとてもいい具合なのだ。
いやー、韓国はすでにコンテンツ王国ですが、一方でなんとなくSFは苦手な国民性なのかと思っておりました。でも、SFも素晴らしいですね。
わしが一番面白かったのは、「共生仮説」かな。著者本人も一番楽しんで書いたそうだ。
******メモ*******
(巡礼者たちはなぜ帰らない)
成人を迎えた村人は船に乗って地球へ巡礼のたびに出るが、そのうちの何人かは帰らない。遺伝子が制御可能となり完全な肉体を手に入れた人たちは不完全な肉体の人たちを差別する。巡礼は自分たちが差別される側であることを認識するためにある。しかし、差別されると分かっていても帰らずに残る人間が出る。なぜなら、彼らは恋に落ちるからだ。
(スペクトラム)
遭難してすべての科学測定器を失った文化人類学者ヒジンが、系外惑星の住民のルイに救われる。彼らは数年しか生きられないが、個人の記録を色という言語で残しており、それを読むことで完全にその記憶を引き継ぐことができる人たちだった。何代目かのルイと過ごしたのち、40年後に宇宙空間で発見された学者は、その惑星の位置を決して語らなかったが、ルイの残した記録を持ち帰る。そこには人間のことを、とても美しい生物だ、と書かれてあった。ヒジンが死んだ後、ヒジンの思いは孫が引き継ぐ。
(共生仮説)
人間の脳内の言語をAIにより解析できるようになり、それを赤ん坊に試してみると、赤ん坊の脳内では、高度に倫理的な内容の会話がなされていた。赤ん坊の脳内に別の生き物がいるらしい。そして、7歳になると、子どもの記憶といっしょに去っていくのだ。ある女性リュドミラは赤ちゃんのときの記憶をなくさず、覚えている内容を絵にすると、それをみた人たちは誰もが懐かしさを覚える。ところが天文学の発達でリュドミラの絵に書かれたそっくりの惑星が発見される。その姿は何100万年前の姿で、いまはリョドミラの惑星は消滅していることが分かっている。すると、リョドミラの惑星から逃れてきた生物が人間と共生して、そのおかげで人類は利他性を獲得して、人間となったのだろうか。
(わたしたちが光の速度で進めないのなら)
宇宙ステーションのには170歳のアンナがいて、そのために宇宙ステーションを取り壊すことができない。アンナの家族はワープ航法で別の惑星に移住したが、アンナはワープ航法時に人間の身体に悪い影響のない方法を開発する技術者でその技術の完成のために地球に残った。その完成間近にワームホール航法という人間の体に影響を与えない方法が発見され、技術のパラダイムシフトが発生し、アンナの研究は無駄になってしまう。政府はワープ航法を全面的に中止することを決める。家族が移住した惑星のそばにはワームホールが存在しなかったため、最後の移住船が出発したが、アンナは乗り損ねてしまう。それ以来、アンナは宇宙ステーションで移住船の出発を待っているのだという。170歳という年齢は冷凍冬眠の結果で、すでに家族も死んでいるだろう。だが、アンナを地球に戻そうとする社員の眼の前で、アンナはシャトルを宇宙に向けて発進させるのだった。シャトルでは他の星系に行くことは到底できないのだが。
(感情の物性)
感情を引き起こすエモーショナル・ソリッド社の「感情の物性」がベストセラーになる。人間は意味を追求するはずのものなのに、感情だけを所有することになんの意味があるのか。恋人のボヒョンがうつの感情の物性に夢中になる中、ぼくは物性と感情の関係を理解しようとする。最終的にはそれは麻薬の効果と判明するのだが、感情だけが物として存在するということはあり得るのだろうか。
(館内紛失)
本文参照のこと。
(私のスペースヒーロー)
別の宇宙へ行くトンネルが発見されたが、それは非常に圧力がかかるので、通常の人間の身体では通過できず、サイボーグ・グラインドという処理をしないといけない。サイボーグ・グラインドをすると、人間は深海でも暮らすことができるようになる。ガユンは最初のトンネル飛行士となり、失敗して亡くなったジェギョンにあこがれて、宇宙飛行士を目指す。しかし、ガユンは思いがけない話を聞く。ジェギョンは宇宙船に乗ってはおらず、発射直前に崖から海に飛び込んで逃げ出したのだ。いや、逃げたのではない、とガユンは確信する。ジェギョンは最初から宇宙へ行く気はさらさらなく、深海でも生きられる身体を手に入れたらそのまま逃げるつもりだったのだ。トンネルの向こうへ行っても同じ宇宙があるだけで新味がない、深海のほうがよほど新しい。そういう発想をする人なのだ。無事にトンネルの向こう側に達したガユンは、やっぱり同じような宇宙が続いていることを見た。でもそんな宇宙の風景も捨てたものじゃない、といつかジェギョンに話そうと思うのだった。
★★★★★