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男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望

イヴ・K・セジウィック 訳・上原早苗、亀沢美由紀 名古屋大学出版会 2001.2.20
読書日:2023.5.19

ジェンダーを理解するには男同士のホモソーシャルな世界を理解する必要があるとし、イギリス文学を読み解くことでその構造を解明しようと試みた本。

この本は原著が1985年で、フェミニズムの基本文献にあげられているらしい。男のホモソーシャルな世界の構造を解明できたのなら、わしも興味があるので、読んでみようと思った。しかし、どうもよくわからないのである。

セジウィックが確認したというのは次のようなことだけに見える。

(1)男は男同士でホモソーシャルな世界を作り、その中でお互いの地位や愛をめぐる欲望を実現しようとする。このホモソーシャルな欲望の中では、女は遠景となって、男同士の欲望を満たすためのコマになってしまう。

(2)男のホモソーシャルな世界はホモセクシャル(実際の性行為)と連続している。これを「ホモソーシャル連続体」と名付けることにする。ホモセクシャルが直接語られることはなく、ホモフォビア(男色への嫌悪)が表明されることでそれが確認できる。ホモフォビアが現れたときはホモソーシャル連続体は分断されている。

いやー、これって、そんなもん分かっとるわい、と言いたくなるような内容じゃないでしょうか。男が男同士、女が女同士でつるむことはぜんぜん普通であって、わざわざ文学をほじくり返して分析するほどのことでもない。わしとしてはもっとホモソーシャルの世界に普遍的な内部構造があることを期待していたのだが、まさか、ホモソーシャルの世界がある、ということだけを主張しているのだとは思わなかった。でも、もしかして、これだけでも1980年代では画期的だったのだろうか。

しかも、この「ホモソーシャル連続体」って結局男同士の世界全部を指してしまうので、これを使って分析するということは、「男ってやつは」というふうに男全部を一般化して語るのと五十歩百歩なのではないだろうか。

でもまあ、せっかくだから、セジウィックが発見したというものを少し見てみよう。

17世紀の「田舎女房」という作品では、貴族による社交界で男の世界が形成され、そのなかで男同士が地位を争う様子が描かれている。このとき、相手の上に立つ手段のひとつが、相手の妻を寝取る、ということである(苦笑)。主人公のホーマーは、性的不具者のふりをして油断させ、つぎつぎ妻たちを寝取るのですが、本当にこんなことでホモソーシャルの世界で優位に立てるんでしょうか? なんとも不思議な発想です。

ここで、男たちは女たちを単なる交換対象としてしか見ていないので、女は通貨とか資産ということになってしまっているわけです。

17世紀後半には、ホモセクシャルというサブカルチャーが顕在化するのだそうです。ホモセクシャルは罪ということになっているので、彼らは検挙されるんですが、「ホモソーシャル連続体」というだけあって、誰でもホモセクシャルにはまってしまう可能性があるわけで、このためか、ことさらホモセクシャルを嫌悪する(ことをわざわざ表明する)ホモフォビアという風潮も同時に誕生します。こうした事もあって、「ホモソーシャル連続体」はホモセクシャルとそれ以外に分断されてしまうのだそうだ。セジウィックの関心はホモセクシャルの方ではなくて、ホモセクシャルが切り離されたあとの、ホモソーシャルの世界がどうなっていくか、ということなんだそうだ。

で、よく理屈は分かりませんが、ホモフォビアはパラノイヤ(偏執狂)と関係があるとフロイト心理学では考えられているそうで、そのためにセジウィックはわざわざパラノイアが濃厚に現れているゴシック小説を分析しています。「義とされた罪人の手記と告白」というのがそれで、まあ、確かにパラノイアは書かれていますが、そんなにホモソーシャルの絆に関係あるのでしょうか。よくわかりません。1980年代はまだフロイト的な精神分析の議論が力を持っていたようで、精神分析的な議論がこの本のあちこちで展開されていますが、まあ、あんまり意味があることのようには見えません。

ついでにいうと、脱構築がどうしたというポストモダン的な議論、シニフィアンシニフィエがどうしたとかそんな記号論的な議論、レヴィ=ストロースフーコー的な構造主義的な議論も、この本ではなされています。こちらもあまり意味はなさそうで、まあ、当時の風潮なんでしょう。

で、18世紀に産業革命が起こると、大家族主義が分解されて核家族化が急激に進みます。核家族は夫婦の異性愛が中心になるので、これは社会による異性愛の強要に当たるんだそうです。そして男は外で賃金労働、女は家で専業主婦という、家父長的なジェンダーが確立されたんだそうです。

ここで「アダム・ビート」という作品を分析しているんですが、ここでは大家族のポイザー家のダイナという女性が女説教師をしていて精神的に自立しており、さらに女工として働いて経済的自立も果たすのですが、結婚することで専業主婦になってしまい、(セジウィックにとっては)価値がない女性になってしまう過程が描かれています。でもここでホモソーシャルな欲望がどんな役割を果たしているのかさっぱりわかりません。仕事が男に独占されていくようになる過程のことをホモソーシャルの欲望と言っているのでしょうか? もしかして男性がみんな結託して?

19世紀のビクトリア朝の時代になると、中産階級が発達してきて、さらにホモセクシャルホモフォビアが明確に現れてくるとして、その分析としてディケンズの「我らが共通の友」をあげています。この作品はホモセクシャルな表現にあふれたものとして有名なんだそうで、分析にはフロイト精神分析に使うような、糞便とか肛門とか括約筋とかの文字が溢れているんですけど、わしはフロイトはまったく信用していないので、なんともなあ、という感じです。

まあ、「我らが共通の友」にホモセクシャルホモフォビア的な表現があふれているのは認めるとしても、これがホモソーシャルの欲望とどんなふうに結びついているのかさっぱり理解できないません。ユージーンとモティマーという青年がホモソーシャルな関係なんですが、ユージーンがリジーという娘と結婚するときにモティマーは去って行きます。つまり、結婚して核家族化するときにはホモフォビアによりホモソーシャルな絆は切断される、ということが言いたいのかもしれません。でもやはり、セジウィックの筆はどちらかというと結婚したリジーに対して向かっていて、一見ハッピーエンドに見えるけどリジーはこの結婚によって価値を失った、と断じているんですね。大きなお世話という気もしますけど。

まあ、この辺にしておきますが、こうやってみると、いろいろ分析していますが、この本でセジウィックはやっぱり、男にはホモソーシャルな世界がある、と言ってるだけのように見えるんですね。それがそんなに大発見なのか、なんとも不思議な感じです。

(追記)

どうも納得できないので、ネットでいろいろ調べてみたら、本当に上記の(1)、(2)がこの本の成果なのらしい。まあ、過去の本を読むときには、現在ではすでに当たり前になっているようなことが大真面目に議論されるということはあり得るということなのでしょう。仕方がないけど、ちょっと気をつけないとね。

★★★☆☆

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