ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

意味の変容

森敦 ちくま文庫 1991.3.26(オリジナルは1984年)
読書日:2023.5.5

数学的なパラドックスの表現と自分の人生を重ね合わせて、パラドックス(矛盾)を含んでこそ世界全体を表現することができる、と文学的に表現したらしい本。

知り合いでときどき本を貸し借りする人が、よく分からない本を図書館から借りてしまった、と言うので、わしも読んでみたのがこれ。解説をいれても文庫本で160ページという、薄い本だ。

二人が出てきてほとんどそのダイアローグでできているんだけど、主に語っている方は、最初は光学部品の会社にいて、次はダムを作る会社にいて、最後は印刷会社にいるんだけど、この流れは森敦さんの仕事遍歴そのままらしい。つまり、この小説は、森敦さんの人生を書いた私小説のようなものらしい。それで実際の仕事で体験的に身につけた知識なんかも披露されたりしてる。

普通の私小説と違うのは、森敦さんがずっと悩んでいたらしい世界全体の構造、について述べていること。なんというかこの人、世界全体を直覚的に捉えることに人生をかけたようなのだ。でも、それなら普通は禅とか仏教とかに行くところなんだけど、そうではなくて、なぜか数学的にそれを捉えようとしているところが普通でない。

まず中心0の周りに円を描く。すると円の内部と外部に分かれ、間には円周の境界が存在する。しかしこの境界は外部に属しているのだという。ということは、内部の空間にいる限りは、どこまで行っても境界(果て)に達しないということだから、内部は開かれているのだという。そして内部のどこに中心を持ってきてもいいのだという。

これは宇宙の構造そのものだから、わしらのいる実物としての宇宙をこの内部とすることができるだろう。するとその外部というのは、内部が実物の世界だから、外部というのはそれ以外の世界、まあ例えば実物ではない幻想の世界みたいな感じなのだ。

内部が生ならば外部は死だし、このとき境界は幽明境なんだそうだ。内部が主観なら、外部は客観なのだそうだ。

しかもこの内部と外部の各点は1対1対応させることが可能だから(その数学的な方法が述べられている)、内部と外部をひっくり返して表現することもできる。どうもこの辺が、意味の変容ということなのかな?

まあ、こういうわけで、内部と外部の両方の矛盾を含んで全体があるということらしい。

そして内部と外部は交換可能だから、外部にもやっぱり中心を置くことができて、その外部の中心にあるのが宇宙樹なんだそうだ。なんだ、それ?(笑)

内部にいると境界に達することはできないけれど、ひとつだけ境界に達することができるものがあるんだそうだ。それが時間という別種の次元だそうで、時間という道路を突っ走れば宇宙樹にも行けるような(行けないような)、なんともへんてこりんな話になっております。

まあ、そういうわけで、すべての存在は矛盾を含んで実存していて、対象と関係を結ぶというのは、その矛盾を含んだ実存を対象としたときだけなんだそうだ。

(矛盾をふくんだ構造が、その存在の意味らしい。ある対象と関係を結ぶというのは、その存在の意味を引き受けることらしい。)

そして、なぜか話はイエスの死のことになり、「死ぬことこそ現実が現実であることを失って、まったき実現になる」んだそうです。

存在は矛盾を含んでいてこそであり、死ぬと矛盾が統合されるということらしいです。じゃあ、時間が境界に達する唯一の方法というのは、単純に死ぬっていうことなんですかねえ。アーメン(笑)。

この本はパラドックスを扱っているから、こういう人は「ゲーデル不完全性定理」を勉強すればそれですべて終わっちゃうんじゃないかって思いながら読んでましたが、解説の浅田彰の項にもゲーデルの名前が出てきて、まあ、そう思うよなあ、と納得した次第です。

ともあれ、自己の魂の私小説というべきもので、少なくとも唯一無二であることは間違いないでしょう。

★★★☆☆

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ