五木寛之 姜尚中(カンサンジュン) 東京書籍 2020.8.31
読書日:2021.7.19
故郷から離されデラシネ(根無し草)である五木寛之と姜尚中が、漂流者として生きるということはどういうことか、ということを話し合う対談。
五木寛之はずっとデラシネのことを書き続けていている。彼は朝鮮で育って戦後に日本に戻ってきた引揚者である。一方、姜尚中は在日朝鮮人である。二人ともデラシネなわけだ。
わしはデラシネにはまったく関心がない。わしは故郷を離れて生活していて、葬式ぐらいしか帰らないから、ある意味デラシネ状態かもしれないが、そのことを悔いたことはない。なので、なぜこんなにデラシネであることを二人が熱く語るのか、さっぱりわからない。どこで生まれてどこで死んでもいいじゃないか、という気持ちだ。まあ、帰ろうとしても帰れないのがデラシネだから、わしは正確にはデラシネではないんだが。
五木寛之は日本に帰ってきて九州、筑豊あたりに暮らしていたわけで、そこで炭田の仕事がなくなってから、人々はどうしたかということが書いてる。閉山のあと、彼らは世界中の炭鉱に散っていったのだそうだ。ドイツとかブラジルとか。わざわざそうした人たちを訪ねて、寂しくないですか、筑豊が懐かしくないですか、と尋ねても、べつにー、という回答が帰ってきて拍子抜けしている。炭鉱があればそこが故郷ばい、といってあっけらかんとしている。
シベリア抑留のことも調べていて、日本に帰りたいと思っていたひとたちばかりではなく、ここにいたいと思って現地に残った人も多数いたという。
二人が言うのは、漂流していく一世の人たちはあっけらかんとして世界中を移動して、その地に根をおろしていくのに対して、どちらかというと二世の人たちがセンチメンタルな感情を抱いて、自分の故郷を求めるのだということだ。なるほどね。じゃあ、わしは漂流者の一世になるのだから、故郷を懐かしく思わないのも当たり前か。
そういう意味では、姜尚中がいまの若者は移動しない、ずっと地元にいる、というのは確かに気になる。わしは自分の息子には、どこか遠くへ行ってわしが見れなかったものを見てきてほしいと思っているんだが、彼にはなんかそういう憧れはあまりなさそうだ。
五木寛之によればデラシネとしていくということは宙ぶらりんの状態でいくるということだそうだ。でもねえ、人間ってだれもが宙ぶらりんなんじゃないの?
すべての人は漂流者。それだけの話だよね。
★★★☆☆