マルクス・ガブリエル 廣瀬覚・訳 岩波新書 2020.1.21
読書日:2020.3.21
マルクス・ガブリエルにはまってるの。というわけで、2冊目は岩波新書。
さて、この本で問題になっているのは「心」だ。人間は心を持っているが、心に思い浮かんだことは物質ではない。何かの意味とか精神とか情動とかそういうたぐいのものだ。そうすると、自分たちの肉体とこうした心とはどういう関係にあるのだろうか。肉体がなければ考えることができないから、肉体、特に脳は必要ということになるだろう。しかしながら、脳をいくら物質的に調べても、心の中身を解明できない。
この関係をマルクス・ガブリエルはサイクリングに例える。サイクリングをするという行為は確かに存在しており、それは例えばスピードや身体に当たる風や爽快感といった感情だったりする。サイクリングには自転車が必須だが、だが物質の自転車をいくら調べても、サイクリングという行為自体を解明することはできない。そうなると、サイクリングという行為に自転車は含まれるが、その逆ではないということだ。(サイクリングに自転車は必要条件だが、十分条件ではない)。
同じように、心は肉体を使って思考したり感情を持ったりするが、それは脳を使って何か行為を行なっているということであって、脳という自然の物質とはまったく別のものなのである。サイクリングと同じように、心の行為には人間の肉体は含まれるがその逆ではない。(心の思考に脳は必要条件だが、十分条件ではない)。
マルクス・ガブリエルの新しい実在論は、自然主義的な存在も意味的な存在も等しく存在すると認める立場である。このように心の行為を見てみると、自然主義的な存在(物質とエネルギーの存在、もしくは科学的研究対象の存在)は、心の行為での存在(=意味的な存在)に含まれるように存在している、ということである。
こんなことが問題になるのも、心身二元論が歴史的にあるからだろう。つまり、身体と精神は独立に存在しているというデカルト以来の考え方の問題である。ここでマルクス・ガブリエルは意味の世界が肉体の世界を含んでいると言ってるようだ。(間違ってるかもしれん、ごめんね)。
さて、この本はマルクス・ガブリエルの主張にほかの哲学者が反論し、さらにマルクス・ガブリエルが答えるという形式をとっている。
ところが、マルクス・ガブリエルの言葉はそれなりにわかりやすくなんとか読めるものの、他の哲学者が何を言ってるのかさっぱり理解できない。非常に困った状態なのである。そもそもなんでそこが問題点になるのかも理解できない。
いつも思うのだが、西洋の哲学の考えにどうも馴染むことができない。大きな違いは、たぶん、人間をほかの動物と違った存在と考えているその思考法にあるのだと思う。わしは、人間とほかの動物、あるいは植物とさえもそんなに大きく違うとは思えないのだ。つまり、すべての生物に心があると信じているのである。この点において、わしはまったく日本人的なのかもしれない。(そのせいで、たとえ害虫でも殺すに忍びないのである)。
そうなると、この本の後半で議論されているような、人間という自然種を動物種のなかにどのように位置づけるのか、などという議論が長々とされているということが、そもそもなぜそんなことを議論しなくてはいけないのか、まったく理解できないのである。
なにか違う発想が必要だ。アニミズムと揶揄されようが、もっと日本人にも頑張ってもらいたいのである。西洋哲学の伝統を踏まえつつ、新しい息吹を持ち込むことを望む。
マルクス・ガブリエルの新実存主義も、今のところ、スケッチ段階で、まだ完成形ではないように思える。今後どういう展開になるんだろうか。
★★★☆☆