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ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義 「永遠の命」への本能的欲求が人類をどう進化させたのか?

ティーヴン・ケイヴ 訳・柴田裕之 日経BP 2021.12.13
読書日:2022.6.9

人間の文化は「不死」への探求の結果生じたと主張し、不死にいたる4つのシナリオを検討し、そのどれもが満足できるものではなく、今を生きることに集中する第5のシナリオを勧める本。

序章で、著者は、この本の目的は人間の文化が「不死」への探求の結果であるということを説明することだという。ここを読んでがっかりしてしまった。人間の文化すべてが「生」か「死」かあるいは両方に関係していることは明らかで、なんだって「不死」と関係づけて説明できるのは確実だからだ。

もしかしてしごく当たり前のことしか書いていないのではないか、という疑念に襲われたが、結果的にはそのとおりだった。うーん。まあ、キリスト教の蘇りとそれがその後どうなったのかという部分には参考になるところもあったから、まあいいか。

なお、副題はひどすぎる。本書は進化とまったく関係がありません。何しろ世界最古の物語、ギルガメシュ叙事詩以降の人間の数千年分しか議論していないんだから。しかも4つのシナリオも、紀元前には人間の議論の中にはすべて出てきており、人間はまったく変わっていないと言っているくらいで、進化はまったく見られないというのが正しい。

ともあれ、さっそく著者の言う4つのシナリオを見ていこう。

第1のシナリオは「生き残り」シナリオだ。

これはつまり死なないということで、不老長寿ということである。不老長寿の薬から健康法、果ては遺伝子操作、サイボーグのような科学技術まで寿命を無限に伸ばす試みはいろいろある。しかし、いまのところ、どれも不死を約束できるレベルではない。そして、たとえ身体の不死を手に入れたとしても十分ではないとする。身体の不死を手に入れても、まだ事故、戦争などで死んでしまう可能性があるからだ。

つまりこのシナリオでは不死は得られない。

第2のシナリオは「蘇り」だ。

キリストは死んでから3日後に肉体を持って蘇ったという。パウロが注目したのはここだ。これまでは死んだら楽園で永遠に暮らすという考えはあっても、それは霊魂としてであり、本物の肉体を取り戻すということをはっきり述べたものはなかったからだ。

死んだら肉体ごと蘇る。パウロが広めたこの約束がキリスト教最大の売りで、しかも約束の日が近いと思わせることでキリスト教は一気にブレークしたという。

しかしいくら年月が経ってもなかなか最後の審判の日は訪れないし、キリストの話以降実際に蘇った人を誰も見たことがない。次第に肉体ごと蘇るという話はなくなっていった。

キリスト教がだめなら科学により蘇りはあり得るだろうか。例えば、自分の意識をコンピュータにアップロードしてアバターとして蘇るというアイディアがある。しかもいったんアップロードした意識は新しい肉体やロボットにダウンロードするということも可能かもしれない。

しかし、アバターであれ新しい身体であれ、その時生きているのは自分のコピーであり、本人はやっぱり死んでしまうのである。スタートレックの転送にまつわるジョークがあるという。転送で身体が分解されるたびに本人は死んでしまい、コピーが組み立てられているというジョークだ。

コピーが作られ、本人は死んでしまうのなら、これは不死とは言えない。

第3のシナリオは「霊魂」による不死のシナリオだ。

人間は単なる物質ではなく、そこに魂が宿っているというのは、とても直感的で納得感を得やすい考え方だ。どう見ても、人間はひとりひとり物質以上の個性を持っている。すると、肉体が滅んでも魂は身体を離れるだけで霊魂という状態で生き続けている、という考え方は自然である。

そういうわけで、霊魂シナリオは非常に人気のシナリオで、かなりの人はこの霊魂シナリオで死後の不安をなくすことに成功している。さらには魂が別の人や動物に生まれ変わるという輪廻転生の考え方も根強い。

当然ながら、霊魂シナリオの問題は霊魂自体が発見されていないことだ。かつては人間の生きている個性を魂無しで説明するのは難しかったが、いまでは物質だけで、つまり脳で説明は可能だという説に異論を唱える人は少ない。つまり霊魂による不死は有り得そうにない。

第4のシナリオは「遺産(レガシー)」による不死だ。

肉体が滅ぶとしても、なにか偉大なことをして人々の記憶に残り、それが語り伝えられれば不死になるという発想である。アレクサンダー大王のような著名な英雄の活動がそうであるし、芸術家の活動も自分の作品を後世に残すことが目的だという。(わしは、英雄はともかく芸術家はどうかなあ、と言う気がするが)。

しかし当然ながら、本人は明らかに死んでいる。しかも残った話は脚色されてしまうので、本人の希望通りの話が伝わるとは限らない。

そういうわけだから、レガシーも不死とは言えない。

そういうわけで、不死の4つのシナリオはどれも実現不可能そうである。そこで著者が勧めるのは、死の恐怖と折り合いをつける第5のシナリオである。

第5のシナリオは死が不可避と悟った人間のとるべき「知恵」のシナリオである。

そもそも人間は死を体験できないという。死んでいるから当然だ。そこで、ヴィトゲンシュタインは、死を体験できないという意味で、人間は不死であるという。

人間は最期の瞬間まで生しか体験できないし、死についてはイメージすることもできない。著者はその死ぬことが分かっているのに死をイメージできないことを「死のパラドックス」と呼んでいる。死を理解できないということが死への恐怖を起こしている。

そこで、自分の家族や一族や地域社会や科学などに関心を分散させ、自己への執着を減らせれば、自分の終焉がさほど重要でないように思えるようになるという。そして「明日死んでも悔いはなく、明日生きていても後悔しない」生き方、つまり有限の生を意識しつつも今を生きる、という生き方を提案する。

というわけで、なんといいましょうか、実に当たり前の結論に達するわけです。

わしの死生観についてはちょっとここで書きましたが、まあ、あんまり死を意識しなくていいのではないか、というぐらいのものです。死んだら死んだとき、ぐらいの気持ちでちょうどいいのではないかと。

わしは霊魂をまったく信じていませんが、それで不安が減るのであれば、信じてもいいと思います。死んだあとも霊魂で生きると信じられたら、死んでから罰を受けたり後悔したりしないように、正しく生きようとするんじゃないですかね。それはいいことだと思います。

今を生きるということに賛成ではありますが、なんかこの言い方には必死さが感じられて、もうちょっとなんとかならないかという気がしますね。

ほら、今を生きると表明する人たちは今日できることを明日に伸ばすな、なんて言うじゃないですか。精一杯生きろ、みたいな。なんか必死に生きている感がするでしょう? そんな必死な生き方はわしはまったくごめんで、わしは明日に延ばせられることはぜひ延ばしたいなあ、と思う方です。

何しろわしはダラダラ生きたいので(笑)。今も日曜日の午後に、わしは部屋着を着たままダラダラと過ごして、こういう文章を書いています。

たぶんそこがわしと起業を志向する人との大きな違いで、起業するようなひとはハードワークをいとわないんですね。わしはいといますから、自分の代わりになんとかお金に働いていただけないかと思って投資をしているわけです。

★★★☆☆

 

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