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イラク水滸伝

高野秀行 文藝春秋 2023.7.30
読書日:2023.11.23

チグリス・ユーフラテス川の河口の湿地帯はメソポタミア文明が興った地域であるが、5千年の昔から現在に至るまで敗れた者や迫害された者が逃げ込む地域でもあり、辺境作家の高野秀行が中国の水滸伝になぞらえてその実情を報告する本。

なんといいましょうか、既に全てのことがネット上に答えがあるんじゃないかと思える現代で、なぜか誰も答えを知らないポッカリと空いた真空地帯がこの地球上に存在しているのです。高野秀行はこの真空地帯を見つける名人で、本当にその嗅覚には感心する。目の付け所がタカノである。「謎の独立国家ソマリランド」にも驚いたけど、今度はチグリス・ユーフラテス川の河口に広がる湿地帯が舞台だ。

なにしろメソポタミア文明が興った超有名なところなのに、すぐ隣に5千年間ほとんど知られずに存在していた社会があるなんてむちゃくちゃ驚き。わしは湿地帯が広がっていることすら実は知らなかった。もちろん、この辺にはかつて湿地帯が存在し、しばしば洪水が起きるところで、亀の甲羅と呼ばれる少し高い土地に人々が住んでいた、という知識はあったが、それは太古のことでいまではすべて砂漠化しているのだと思っていた。でもそうではないのである。広大な湿地帯があり、人々はつい数十年前まで、ボートに乗って湿地帯を移動していたのである。

この湿地帯には、太古から主流派でない民族の人々や反政府的な人々が逃げ込むところだった。その理由は単純で、軍隊が入れないからである。8メートルの高さの葦が生えているので、まったく先が見えず、葦の間の水路をボートで移動すると、どこにも目印はないので、すぐにどこにいるのか分からなくなってしまう。乾いた土地はほとんどないけれど、どこにでも生えている葦を踏み倒すとすぐにそこが住める仮の土地になるので、広い湿地帯のどこへでも自由に移動できて追跡は不可能である。ここにはユダヤ人も逃げてきたが、現代ではコミュニストが逃げてきたらしい。

ここにずっといるのがマアダンと呼ばれる人々だ。アラブ人でマーシュアラブとも呼ばれている。この人達はマンダ教という独自の宗教を持っている。イスラム教が起こるずっと前からいるのである。マンダ教徒は一日に何回も水浴をするんだそうだ。またイスラム教徒ではないので、ラマダンも、メッカへのお祈りもしない。

またマーシュアラブ布という刺繍をした布が存在していて、その実体もほとんど知られていない。こうした布についても、できる限りの情報を現地で集めて報告している。

というわけであるが、そもそもいまだ政情不安のイラクへ行き、イラク国内を移動するのもものすごく大変なのである。日本で知り合ったイラク人を頼っていったら、その家で人が殺されたばかりだったりする。イラクは完全な氏族社会で、なにか揉め事が起こるとすぐに氏族同士の調整になったりするような土地柄だ。なので、なにをするにしても、その土地のトップに近い人に知り合いを作ることが優先される。トップの人がオーケーと言ってくれれば、話がどんどん進む。

ところが、これがなかなか前に進まないのだ。イラク人はすぐに昼食を一緒に食べよう、という話になって、何時間も食べる羽目になる。イラク人のホスピタリティにはすごいものがあるのだ。ものすごい量の食事が出てくるのである。しかもイラク料理は美味しいのだ。あまりに食べすぎて返って体調が悪くなってしまう。なぜか鯉が定番の食料で、高野が名付けた鯉の円盤焼きというものが出てくる。マンダ教徒は水牛を飼っていて、マンダ教徒がイラクに広めた水牛の乳から作ったゲーマルという不思議な乳製品もある。

しかしそこは高野秀行だから、なんとか人をたどって、湿地帯に顔が効く人と繋がりを付けるのである。しかも得意の語学を使って、人を笑わせることも忘れない。いつのまにか地域の有名人になるのもいつものパターンである。

さて、5千年続いたイラクの湿地帯だけど、いまは大幅に縮小し、存続が危ぶまれているそうだ。現代の土木工事のほうが強力なのだ。水源のトルコではダムがいくつも作られているし、イラク国内でも水がいろいろ使われ、チグリス・ユーフラテス川の水量が減っている。イランからも川の水が流れ込んでいるが、これもイラン側が使ってしまって水量が減っているらしい。フセイン時代には反政府勢力のコミュニストに怒って、堤防を作ったり、湿地帯を通らないように水路を作って、ほんとうに湿地帯を干上がらせたらしい。おかげで湿地帯の西と南は生物が絶滅したという。フセイン政権がイラク戦争で崩壊したあと、人々は堰を壊して、湿地を回復させたのだそうだ。というわけで、高野秀行のこの報告は、本当に最後のイラク湿地帯の報告になるかもしれない。

いや、すごいなあ。高野秀行もまだ56歳だし、あと10年は辺境の報告をしてもらいたいなあ。

★★★★☆

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