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個人投資家目線の読書録

サンスクリット原典現代語訳 法華経(上下)

植木 雅俊 岩波書店 2015年3月25日
読書日:上巻2018年08月17日、下巻2018年11月11日


法華経サンスクリット語から訳したもの。(中国語を経ていないところが重要なのかな?)。

最近、法華経に興味を持ったので、読んでみることにした。ただし現代語訳(笑)。内容を忘れそうだから、メモに記します。内容を誤解してたらごめんなさい。

~上巻~

(序章)
瞑想している世尊(普通ブッダと呼ばれるあの方)の周りにたくさんの阿羅漢(アラカン)、出家者、菩薩、シャクラ神(帝釈天)、龍王転輪王などが集まる。世尊が、なにやらありがたいお話をしてくれるらしい。

(第2章、巧みなる方便)
世尊が瞑想から覚めて、弟子の尊者シャーリープトラに語りかける。みんなが行っている修行は実は方便であり、単なるひとつの手法に過ぎないという。シャーリープトラが驚いて、その意味を教えてほしいと頼む。世尊が説明しようとすると、自分はもう学ぶものがないと増長した5千人の修行者たちが立ち去ってしまう。世尊は黙ってそれを了承する。(なお、この人たちもあとで救われるのだそうだ)。

世尊はブッダに至る乗り物はひとつであり(仏乗)、いろいろな教えを学んだり(声聞乗)、師につかず一人で悟りに至ろうとしたり(独覚乗)のような修行は必須ではないという。それどころか、建物を作ったり、遊び楽しみながら像を作る大人や子供も悟りに至るという。ブッダは巧妙な方法を使って、人々を悟りに導くらしい。

(第3章、譬喩(ひゆ))
それは例えば次のような話のようである。ある金持ちの屋敷が火事になった。家の中には子供たちが火事に気が付かず、遊んでいる。この時に、屋敷を出るように命令しても言うことを聞かないであろう。それで金持ちは、「欲しかったおもちゃをあげるから出ておいで」という。すると、子供たちは争って屋敷から出てくる。こんなふうに、さまざまな方便(手法)を使って、人々を悟りに導くのだという。

(第4章、信順の志)
それを聞いた修行に熱心でない人たちが、それは気が付いたら金持ちになっていたようなものだといい、次のようなたとえ話をする。

金持ちになった男が自分の財産を息子に継がせたいと思ったが、息子は若い時に家を出ていた。しかしある時、運よく息子に再会し、部下に命じて息子を無理やり連れてきたが、スラムの生活に慣れた息子は、金持ちの屋敷で恐れおののくばかりだった。そこで金持ちは、まず息子に便所掃除の仕事を与え、徐々に仕事の質を高め、財産をすっかり任せられるくらいに成長させた。そして死期が近づいたころ、じつはこの男は息子であり、全てを譲ると宣言した。このように、如来(=ブッダ)は人々をいろいろな方法を使い、知らない間に導くという。

(第5章、薬草)
尊者マハー・カーシャパが、一般の人が乗る(大乗)、修行する人たちの乗る(声聞乗、独覚乗)のそれぞれの至る涅槃は同じでしょうか、と質問する。世尊は涅槃に区別はなく、ひとつであるという。尊者はさらに、ではなぜこの世ではそれぞれは分かれているのでしょうか、と質問する。すると世尊は、それは優れた陶工が同じ粘土で様々な容器、たとえばバターの容器、ヨーグルトの容器、不浄なものの容器を作るのと同じであるという。

無知な一般人は盲目の人のようである。修行している人は、医者から薬を与えられて、目が見えるようになった人のようである。だが、目が見えるようになったからと言って、自分は悟ったと思い込み、傲慢になってはいけない。目が見えるようになっても、建物の中にいれば外が見えず、遠くの音も聞こえず、人の心の中も読めず、道がなければ進めず、生まれる前のことも覚えてはいない。修行していても無知なのであり、一般人となにも変わらない。

(第7章、過去との結びつき)
このような法は、今生まれたわけではなく、ずっと過去から伝えられてきたのである。過去に「大いなる神通の知恵の勝れるもの」という世尊が現れ、いまの世尊はその世尊の下で菩薩としてその法を学んだという。
(過去からの因縁で正当化?)

(第6、8、9章、予言、五百人の男性出家者への予言、アーナンダとラーフラそのほか二千人の男性出家者への予言)
修行している立場の違う人たちが、みんな涅槃に行けると聞いて喜ぶ章。

(第10章、説法者)
如来が亡くなったあと、一般人にこの法を説く説法者は、如来から派遣されているのと同じである。一般の人たちが少しでも法華経に触れる機会があるのなら、そのものは涅槃に近づくから、良家の子息は説法者となって一般人に説かなければならない。たとえ説法者の理解が不完全であっても、菩薩がそれを助ける。

上巻はここまで。
ううーん(^^;;。現代語訳ですからスカスカ読めますが、書かれてる内容は、思ったよりもいまいちです(^^;。というか、とても普通です。

~下巻~

法華経の現代語訳の下巻だけど、これは意外につまらなかった。内容としては、当時の仏教の他の宗派との違いを語っていることがほとんど。女性も救済されるとか、実はブッダはこれまでにも何度も現れているのだとか、そういうことを言ってる。そして、この法華経を部分を聞くだけで成仏できるとか、自分の優位性を主張している。

こういうのは、他の宗派とどう違うのかを気にする人には重要な情報かもしれないけど、仏教の宗派の違いに詳しくない人にはほとんどどうでもいい話なので、読んでいてどうしても飛ばし読みになってしまう。

法華経は重要な仏典と聞いていたけど、全体を通して思ったことは、法華経で重要なことは、誰でも等しく成仏できるというところだけで、それ以上でもそれ以下でもない気がする。確かに当時としては画期的だったのかもしれないけど、民主主義が実現している現代ではあまり響かないんじゃないだろうか。

法華経を読んでみたいという人には、要点だけを載せたダイジェスト版だけで十分だと思います。

★★★☆☆


サンスクリット原典現代語訳 法華経(上)


サンスクリット原典現代語訳 法華経(下)

 

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