
林望 祥伝社 2010年3月25日
読書日:2026.6.22
作家、書誌学者の林望による源氏物語の現代語訳の第一巻。桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫まで。
やはり日本人として生まれたからには、源氏物語は一度は読んでおきたいコンテンツである。当然ながら、原文で読むようなかったるいことはできないから、現代語訳で読むのだが、そうすると誰の訳で読めばいいのだろうか。
しかし、わしの場合、答えは簡単である。リンボウ先生しかありえない。だってリンボウ先生は「イギリスはおいしい」から読んでいて、いちおう馴染みなんだから(笑)。このへん、リンボウ先生が訳したから読もうと思った、という部分もあるのである。そして、リンボウ先生ならしっかりとした仕事であることは、ほぼ確実である。もちろん、読んでみると、なんの違和感もなくすらすらと読めた。
ここで断っておくが、わしは源氏物語は高校の教科書で出だしの桐壺を少し読んだだけで、実はほとんど内容を知らなかった。そして、今回読んでみて、わしは源氏物語に衝撃を受けてしまった。どこに衝撃を受けたかというと、「若紫」にである。
若紫は光源氏の思い人である藤壺の親戚の少女で、藤壺は天皇の妃であるから自分のものにはできず、その代わり藤壺にそっくりの若紫を手に入れて、自分好みの女に育てようというのである。このとき若紫は10歳ぐらいである。読んですぐにナボコフの「ロリータ」を思い浮かべた。しかしナボコフの「ロリータ」が20世紀の中ごろである。すると源氏物語は少なくとも900年は世界文学に先行していることになる。
まあ、源氏物語を少しでも知っている人からは、なにをいまさら、と言われるかもしれないが、まったく知らなかったので素直に驚いてしまった。
そして、同時に、谷崎潤一郎はまったく新しくないなあ、とも思った。源氏物語が彼にとってネタ本だったことはよく知られたことだから、驚くことはないかもしれないが、しかし想像以上に谷崎は源氏物語から離れていない。これじゃあ、彼は単に王朝文学を現代にアップデートしただけ、と言われてしまうんじゃないだろうか。
桐壺、帚木、空蝉、夕顔まではどちらかというとオムニバス小説であるが、若紫は事実上の長編小説としてのリスタートという感じだ。それが証拠に、ここで突然、光源氏と藤壺の女御との密会の話が出てくる。この密会が2回目になっているので、その前の1回目はどこに書かれてあったっけ、と前のほうを読み返してみたがそんなシーンはない。だから、このエピソードは今後の物語の進展に必要だったから、少し唐突感はあるが、ここで出してきたのだと考えられる。つまり、この若紫あたりから長い話としての構想が固まり、 その構想の前提を書いておく必要が生じたのだろうと推察された。ある意味、ちょっとした軌道修正なのだが、これを回想的に処理したというのも、当時としては斬新だったのではないか。おそらく、このような小説的なテクニックを、紫式部はいちから作っていったのだろう。
うーん、1巻目からこんな衝撃を受けてしまって、これはもう全巻読むしかないね(笑)。
ほかに源氏物語を読んでいて面白いと思ったところを、いくつか挙げておこう。
まずはむちゃくちゃ人口密度が濃いなあ、というところかしら。なにしろ光源氏やそのお友達は、高貴な方々だから、一人で出歩くことはないのである。必ず供人(ともびと)とか随身(ずいしん、警護の人)とかといっしょに行動するし、出歩くときは牛車(ぎっしゃ)である。こちらもそれ専用の人がいるに違いない。女性のもとを訪ねるにしても周りの人の協力なしにはあり得ないことである。二人っきりになるにもいろいろ苦労しているようだ。
方角の関係である貴族の邸宅を通ってから別のところに向かうという話があって、その貴族がOKと言ったので、じゃあ行くか、と出かけるのだが、当時は携帯電話があるわけでもないから、もちろん身の回りの人がわざわざそちらに出向いてお伺いを立てたということなのだ。だが、最初はその辺がよく分からなかった(笑)。こういう身の回りの世話をする人がともかくたくさんいるのである。現代のように便利な機械があるわけではなく、すべて人力で処理しているというのが面白い。
それから邸宅の中で寝る場所というのが、その時々で結構いい加減だということである。寝室が決まっていないようで、なんか適当なところでごろんと横になって寝ている、という感じである。寝具も運んでいる様子はなさそうなんだけど、いったいどうしていたのかしら。面白いね。
なぜか紫式部は、ひとびとの邸宅の庭はあまり手入れがされず、草ぼうぼうのひなびた感じがお好きらしい。もしかしたら、自分の実家がそんな感じなのかもしれない。
というわけで、紫式部は、1000年前に、キャラクターを設定してその内面をきちんと描くという近代的な小説の形式を世界ではじめて編み出したと言われているけど、そのテーマの大胆さはいま読んでも世界の最先端といっていいくらいだ。こんなことってあるのかしら。すごいね。
★★★★☆

