ジョゼフ・E・スティグリッツ 訳・山田義明 東洋経済新報社 2025.6.3
読書日:2026.4.27
ノーベル賞のスティグリッツが、新自由主義を批判し、進歩的資本主義を目指さなければいけないと主張する本。
この本を読むと、スティグリッツは本当に新自由主義が嫌いなんだな、と実感する。もう宿敵という感じだ。この本では、全編、新自由主義を非難する言葉であふれている。
スティグリッツの学者人生は、新自由主義との戦いに明け暮れ、そして負けてきた歴史といってもよいのだろう。しかも、それは学問的に負けたのではない。スティグリッツは、新自由主義の主張が間違っていることを論文では何度も実証しているのだ。ところが、政策的には、彼の政策は採用されず、新自由主義の政策が採用され続けてきた。新自由主義の圧勝である。
あるとき、スティグリッツはミルトン・フリードマンとステージ上で討論するという機会があったそうだ。フリードマンはスティグリッツの論文が間違っていると言っていたので、いったいどこが間違っているのか教えてほしいとその場で訊いたそうだ。しかしフリードマンはそれには答えず、単純に自分の主張を繰り返したのだそうだ。こうして実質的な議論は全く行われないまま討論会は終わってしまったという。フリードマンは議論の舞台にすら上がってこなかったのである。
つまり新自由主義は学問ではなくイデオロギーだということだろう。しかし、イデオロギーとしての新自由主義は非常に魅力的で、強力な破壊力を持っている。なぜなら、ほぼすべての人は本質的に自由でありたいと思っているからだ。
しかし、新自由主義の政策を続けてきて、いったい世界で何が起こったのかを見てみると、やっぱり新自由主義は間違っていたという思いは、多くの人の間で共有されてきたのではないだろうか。富は一部の人に集中し、格差が広がり、社会は分断した。こうしてようやく、新自由主義を非難する声が人々に届き始めたのである。
では、新自由主義を非難するときに、どんな論法があり得るのだろうか。
ひとつは、個人の自由をもう一度社会的な立場から考えなおす、ということになるようだ。つまり、自由というのは、自由だからといってある個人が社会の中で何でもやっていいというわけではない、ということを再確認することである。
スティグリッツはそれを端的に、「ある人の自由は、ほかの人の不自由」という言葉で表している。これはアイザイア・バーリンの「オオカミ(強者)にとっての自由は、往々にしてヒツジ(弱者)にとっての死を意味する」 のもじりだ。つまり誰かに何かの自由を与えると、必ずほかの人の自由を奪ってしまうことになるということだ。社会の中では、ある人の自由とほかの人との自由との兼ね合いを避けて通れないのだ。
ここで、自由について「パイの奪い合い」のような発想をわきに置く必要がある。そうではなく、自由というパイを大きくする方法があるのだ。それが公共性という概念だ。
つまり社会には、自分の自由をある程度手放すことで、自由が増えることがある。たとえば、交通ルールだ。自分の思いのままに移動する自由を放棄して、車は右側通行、などといった不自由を認めるならば、全員が素早く移動できるという、より大きな自由を得ることができるのである。
同じように、法律や教育などの公共インフラもそういった自由を拡大するものだ。税金は人々からお金を使う自由を奪うが、多くの人の自由を拡大しているのである。つまり自由を制限することで、もっと大きな自由を得られる可能性がある。
富裕層も、私的所有の自由や契約の自由などの制度を利用して、資産を作り維持している。このような制度が認められない純粋に力だけで成り立っているような社会には、彼らも住めない。ところが、富裕層はこのような社会制度にただ乗りして、さらなる自由の拡大に貢献しようとしていないのだという。
このような社会制度や公共的な活動は「外部性」と呼ばれる。外部性とは一言でいうと、市場(つまり価格)を介さずに経済に影響を与えるすべてのものだ。このような外部性は至る所にあり、新自由主義が前提とするような自由市場だけで成り立つ完全な経済など存在しないというのが、スティグリッツの主張なのだ。したがって、新自由主義は原理的に間違っているというのである。
ではどうすればいいのだろうか。
スティグリッツによれば、それは進歩的資本主義という新しい社会制度を作る必要があるという。単純には、富裕層からより多くの税金を取って、公共投資をするような制度だ。そして制度の検証には、正義論のローズの「無知のベール」を使って検証することが大切なのだという。無知のベールとは、金持ちかどうかや才能があるかどうかなどの社会立場に関係ないと考えて、ものごとをみる思考実験のことだ。
さて、スティグリッツの主張はおおむね正しいとは思うが、少し納得できない部分もある。例えば、遺産を引き継いだものは、もとをたどればみな奴隷制や先住民から奪ったもので正しくないとか、富裕層の富はすべて庶民から搾取したもので正しくないと決めつけるようなところがある。このへんは読んでいて苦笑してしまった。そんなことを言いだしたら、切りがない。まあ、彼のどこかに明確な線引きができているのかもしれないが。
そして、スティグリッツのいいたいことは分かるが、残念ながら言葉が弱い。正しい学者らしく、あらゆる局面を網羅的に書こうとする。彼によれば、400ページの本では少なすぎるのだそうで、まだまだ書きたいことがたくさんあるのだが、我慢しているらしい(笑)。
こんな書き方では、それが正しくても、なかなか社会に浸透しないのではないか、という気がする。これでは新自由主義に議論で勝ってもイデオロギーで負け続けるのも仕方ないかなあ、という感じだ。同じ新自由主義批判でも、スティグリッツより、「絶望死」という言葉を考えたアンガス・ディートンのほうがインパクトがあるよね(読んでないけど)。ディートンはもともと新自由主義者。どうやらイデオロギー論争になると、やっぱり新自由主義者のほうが一枚上手らしい。
★★★★☆

