マルクス・ガブリエル 監修・斎藤幸平 訳・土方奈美 早川書房 2024.6.20
読書日:2026.3.23
「なぜ世界は存在しないのか」という本で「新実在論」を示し、スター哲学者になったマルクス・ガブリエルが、新実在論の立場から倫理を語り、新自由主義的な資本主義は間違いで、そもそも資本主義は倫理的な発想から生まれたのだから、倫理をもう一度資本主義と結合しなくてはいけない、と主張する本。
資本主義と倫理に関して、少し前、そもそも資本主義は悪だが、ジョン・ローズの正義論を使って、悪だけれども正義といえる制度を作ることはできる、という本を読んだ。
しかし、そもそも資本主義が悪だと決めつけずに、もうちょっとマシな意見はないものだろうか、という思いで、この本を手に取ったのである。マルクス・ガブリエルは資本主義のことを悪と決めつけていないので、好ましい。それどころか短絡的に資本主義を悪と決めつける風潮に反対している。非常に好ましいと言える(笑)。
しかし、そもそも人間はどうやって、倫理について、これはいけないとか、これは善だとかという判断ができるのだろうか。この点について、マルクス・ガブリエルは実に不思議なことを言い出すのである。
「溺れている子供は救わなくてはいけない」「人に向けてミサイルを打ってはいけない」「奴隷制は邪悪だ」「女性蔑視はいけない」
こういったことは「道徳的事実」なんだそうだ。そして、こうした事実は倫理に関する意味の場において、「実在している」、というのである。
これがどういう意味か分かるだろうか? そしてどこが不思議か分かるだろうか?
マルクス・ガブリエルは、こうした道徳的事実は、人間がそう考えたから存在しているのではない、と言っているのだ。人間とは無関係に、そのような事実として最初から存在している、実在しているというのである。マルクス・ガブリエルのいうとおりなら、それは人類が存在する前から、そして人類が絶滅したあとも意味として実在しているはずだ。
そして人間には「ヒューリスティックス」という機能があり、そのヒューリスティックスを使って、この道徳的事実にアクセスして、道徳的に何が正しいかが分かるというのである。ある意味、人間はヒューリスティックスを使って、道徳的事実を発見しているのである。
だから、倫理は、人種や性別や宗教や文化を越えた人類共通のものだというのがマルクス・ガブリエルの主張だ。溺れた子供を見つけたら、「溺れている子供は救わなくてはいけない」という道徳的事実をすぐにヒューリスティックスで発見して、あらゆる人間は、何を差し置いても子供を助けようとするのだという。(なお、道徳的事実は、〜すべきでない、〜しろ、などといった単純な命令形で存在するのだそうだ(=カントの定言命法)。またヒューリスティックスとは、普通、行動心理学では直観によるショートカットした判断のことを指す)。
これは実に不思議な議論である。ここに至って、わしは自分の「新実在論」の理解が間違っていたことに気がついたのである。
マルクス・ガブリエルは、「なぜ世界は存在しないのか」で、ユニコーンのような空想の生物も実在すると言っている。わしはこのことを、人間がユニコーンを空想しているという意味で存在している、と理解していた。
しかし、そうではないようである。マルクス・ガブリエルは、人間がユニコーンを空想していようがいまいが、さらにいうと、人間が絶滅していなくなったとしても、ユニコーンは意味として実在している、と言っているのである。意味の場は人間と無関係に無限に存在しており、人間はたまたまその意味の場に訪れたとき、その意味を理解するようだ。それは森の中の木が倒れたとき、それを誰も見ていなくても事実として存在している、というようなものなのだ。
新実在論を使って倫理を考えるということはこういうことなのか、と、かなり驚きを覚えたのであるが、まあ、不思議なのはこの辺だけで、それ以降はそんなに不思議ではない。
道徳的事実がこんなに明快なのなら、なぜ現代では倫理がこんなに問題になっているのだろうか。それは、この世界の関係は複雑な「入れ子構造」になっていて、ある道徳と別の道徳がぶつかり合ってしまうからだ。ある部分である道徳を増やすと、それが波及した別の部分で別の道徳を減らしてしまうということが起きるのである。
このような複雑な世界の倫理を考えるには、歴史学、経済学、社会学などの人文科学に通じた専門家が必要なのだという。特にこれに向いているのは、マルクス・ガブリエルによれば、哲学者なんだそうだ。ちょっと自画自賛っぽいけど、まあ、そうなのかもしれない。
そして、この社会がよくないのはなぜか、という問いに対して、多くの人が脊髄反射的に「資本主義が悪いから」というふうに答えてしまう。しかし、よく知られているように、これまで共産主義を実行してうまくいった例はないのである。
これがなぜかと考えると、マルクスの唯物史観が間違っているから、ということになるのだという。マルクスは経済が下部構造として土台にあって、その上に文化という上部構造があるというふうに考えた。
しかし実際にはそれは逆なのだという。資本主義ではまず倫理があり、倫理に最も合う社会構造として資本主義を構築しているというのだ。それが証拠に世界最初の経済学者と呼ばれるアダム・スミスは、もともとは「道徳感情論」という本で道徳を考えてから「国富論」を出版している。つまり、倫理と社会という大きな世界があって、その中の一部に資本主義があるのだ。
そして資本主義にとって最も重要な価値観は「自由」だ。資本主義が成立するには、所有の自由とか契約の自由とかの自由が必要なのだ。しかしこの自由はなにもないところに成立しているのではない。実際には社会が、もっと具体的には国がその自由を保証しており、法律が守っているから成立している。だから自由とはもともと社会的なものだという。なんでもやっていいというレッセフェール的な自由はそもそも存在しない。すべての自由とは最初から「社会的自由」なのだ。
ところが、ハイエクやフリードマンの新自由主義は、経済活動を自由にすればするほど社会が良くなる、というあべこべの発想をしており、これはそもそも順番が間違っているのだという。正しい順番はまず倫理をアップデートして、新しい啓蒙を構築して、それに基づいて経済活動を行うことだというのである。新しい啓蒙とは、例えば環境に配慮したエコ・ソーシャル・リベラリズムなのだという。
倫理的に正しいことは、経営的にも正しいという。同じサービスをしていても、倫理的に正しい企業の方が、儲かればいいという企業を結局は淘汰していくだろう、というのである。
具体的にどうすればいいのだろうか。マルクス・ガブリエルは、企業の中に倫理問題を担当するCPO:Chief Philosophy Officerを導入するべきだと言っている。さらに倫理専用の部署を作るべきだと言っている。
また社会全体の課題としては、子供に選挙権を与えるべきだと言っている。
でも、これらの主張は新実在論の道徳的事実を持ち出さなくても言えるような気がする。それならば、マルクス・ガブリエルが倫理において自らのお家芸である新実在論を持ち出すことにどんな意味があるのだろうか?
それは道徳的事実は人間と切り離されていなければいけない、と言いたいのだろう。つまり、人によって解釈が違うとか、文化的な差によって相対化されては困るということなのだ。それは、絶対的な正解だということにしたい、そのために道徳的事実は人間と切り離された事実である、といいたいのだろう。人間と切り離されているからこそ、誰にもそれは否定できない、絶対に正しいもの、と言えるのである。
このような主張をあなたは信じるでしょうか? わしはちょっと納得しかねる部分が正直に言ってある。わしは、絶対に正しい、という主張には脊髄反射的に疑いを持ってしまうタイプなので(笑)。
*** AIの倫理 ***
おまけとしては、AIの倫理についても語っていて、まずAIは人間が設計した範囲であること(=ブラックボックス化して人間が判断できないようになってはいけない)、AIはそれ自体としてインテリジェントであってはならない(=人間が課題を与えなければインテリジェントではない、つまり自律してはいけない)、と主張している。結局、AIは制限されなければいけないということのようだ。
★★★★☆

