紀田順一郎 松籟社(しょうらいしゃ) 2017.7.14
読書日:2026.3.1
紀田順一郎が蔵書の扱いに苦慮し、世の中の何万冊もの蔵書を持っている人がそれをどう処理したかを考察した本。
この本は紀田順一郎が自らの半生をかけて集めた蔵書に別れを告げる、衝撃的な場面から始まる。
紀田順一郎は終の棲家と決めたマンションに移り住むために600冊の本を厳選し、その他のすべての本(数万冊)の処分を古書店に依頼する。その蔵書がトラックに積み込まれて去っていくとき、紀田順一郎はわざわざ表に出て、トラックにいる店主に挨拶をし、トラックが去っていくのを見送った。そして……
――その瞬間、私は足元が何か柔らかな、マシュマロのような頼りないものに変貌したかのような錯覚を覚え、気がついたときには、アスファルトの路上にうつ伏せに倒れ込んでいた。
周りの人間が慌てて駆け寄るが、紀田順一郎は、なんでもありませんといいながら、またグニャリと倒れ込んでしまうのである。そして老妻につかまりながら、主(あるじ=蔵書)のいない家に戻るのであった。
かくかように、ある人々にとっては、蔵書は自分と一体化しており、蔵書がなくなることは自分の存立基盤がすべて崩壊してしまうような錯覚を覚えるらしい。
というわけで、蔵書の散逸の方は答えは簡単である。
まずスペースが無くなる。個人が確保できるスペースは非常に限られるので、それ以上の蓄積が不可能になる。次に、持ち主が歳をとってくるにつれて蔵書を管理できなくなり、あるいは亡くなってしまい、古書店に売却される。
蔵書というのはその人の人格そのものだから、蔵書の持ち主の希望は、できればそのまま一括でどこかに寄贈したい、ということである。だが、受け取る方もスペースと管理費用の問題があるので、よほどの大物文化人の蔵書しか一括で引き受けてもらえない。紀田順一郎クラスでも無理なのである。
というわけで、蔵書は散逸する。
でも、どうしてそれだけの蔵書がたまるのだろうか。
紀田順一郎の世代は、なにか本を書こうとしたら、自分で資料を集めて自分で持っているしかなかったようだ。まだ図書館の貸し出し機能は充実していなかったし、インターネットなどの電子的な資料もなかった。というわけで、執筆のテーマが決まると、関連の図書を数百冊をまず買うことになる。
しかし本を書き終わっても、増刷の際には修正したりするので、本はそのまま保存しておく必要がある。こうして何冊か本を書くと、たちまち蔵書は数千冊という単位になってしまう。というわけで、数万冊に膨らんでしまうのは簡単なのである。
かつての偉大な文人たちも蔵書にはいろいろ苦労していたようだ。印象に残ったのは、江戸川乱歩が土蔵に蔵書をした例だろうか。土蔵は温度と湿度がほぼ一定で、蔵書にはもってこいなのだそうだ。
まあ、別に本に限らず、なにかのフェティシズムにかかってしまい、収集が始まると、常にスペースと亡くなったあとの処分という問題が発生する。
わしは本がたまることが嫌いで、本を買うときはできるだけ電子書籍にしているし(例外は友達に貸す予定がある場合とかに限られる)、そもそも本はほとんど図書館から借りている。
このブログのような読書のレビューを書くとき、どっちが楽かというと、圧倒的に電子書籍のほうが便利。なにしろ検索ができるから。物理的な本だと後でレビューを書くときに、付箋でも貼っておかないと、どこに書いてあったかわからなくなってしまう。もっとも、読みながら付箋なんか貼ったことないけどね(笑)。
そういうわけで、仏教ではないけれど、もはや物質に執着しないほうが、いろいろ楽なんじゃないかしら。
(参考)
★★★☆☆

