ジョセフ・ヒース 訳・庭田よう子 解説・瀧澤弘和 慶應義塾出版会 2025.9.20
読書日:2025.12.10
資本主義システムに対して倫理を適用するということはどういうことかを示した本。
倫理の世界では、そもそも資本主義は道徳的に悪らしい。というか、市場で交渉をしてあるものを売ったり買ったりする、そのこと自体が道徳的に悪いことに分類されてしまうようだ。いったいどういうことだろうか。
どうやらそれは「競争」するということに問題があるようだ。競争するということは、強いものが弱いものを押しのけるということである。市場では、お金をたくさん持っているものが持っていないものを押しのけて、ある財を自分のものにしてしまう。売り方もできるだけ高く売りたい。つまり、売り買い両方とも「利己的」というわけで、このような利己的な活動は道徳的に悪いことになってしまうようなのだ。
というわけで、道徳的には、資本主義はそもそも悪いシステムであり、社会主義的、もしくは共産主義的なシステムが正しいということになる。これは資本主義者の端くれのわしとしては受け入れがたいことであるが、まあ、それはおいておくとして、人類はすでに共産主義の実験をして、壮大な失敗に終わったことはよく知られたことである。したがって、共産主義の計画経済よりも、価格をシグナルとして自動調整する資本主義のシステムのほうが実際に作動するということも倫理学者は心得ている。そういうわけで、そもそも悪である資本主義のなかにどうすれば倫理的な部分を加えることができるのか、ということがビジネス倫理学の問題になるのである。
これは「戦争の倫理」を考えることに似ているという。戦争自体は絶対悪であるが、戦争を無くす方法は見つかっていない。しかし、戦争をするにしても、こういうことはしてはいけないという倫理的なルールが作られている。このようなルールをビジネスの世界で構築していこうということが本書の課題なのである。
と、ここまでが本書の前提となる部分である。ここからが本題になるのであるが、わしは出発点に立つだけでも疲れてしまった(苦笑)。自分がいかに資本主義的な発想にどっぷりとつかっているのか、ということを思い知らされた次第である。これまでも資本主義を悪と考える本にいろいろ出会ってきたが、そもそも道徳的に間違っていると倫理学者にこんなにはっきり言われるとは。
みなさんもこれからはお店で買い物をするたびに、自分は道徳的に悪いことをしているのだと自覚してください(笑)。
では、どの辺が具体的に妥協点になるのだろうか。
そこで持ち出されるのがジョン・ロールズの正義論である。ここで正義論を持ち出すのがポイントだ。正義論とは道徳論ではない。正義論とは制度の公正さを問う議論のことで、道徳的に良いか悪いかではなく、制度として正しいかどうかを問うものだ。つまり正義論で議論することで、道徳をとりあえず脇に置いておこうという戦略である。
ヒースによれば、ロールズの正義論を注意深く読むと次の2つのことを言っているという。
1.相互作用は各人に恩恵をもたらし、恩恵の最大化は誰にとっても共通利益になる。
2.ある種の取り決めが一部の者に対して、それ以外の者より大きな恩恵を与える可能性がある。
つまり、あるルールを作ってできるだけみんなに恩恵が及ぶように最大化を目指すのが正義なのだ。その結果、恩恵が一部の人に偏ることがあってもそれは仕方がない、ということである。いちおう誰にとっても恩恵があるのだし、これが最大ならこれ以上は仕方がないと言える。
このような状態は、経済学的には「パレート効率性(パレート最適)」と呼ばれている状態だ。この状態では、誰かの恩恵を増やすと誰かの恩恵が減る。したがって恩恵が最大化されていてこれ以上動かせないような状態だという。
だが、ある結果が誰かの状態を悪化させずに、少なくとも一人の人物の状態を良くする場合、その結果の方が望ましい、とも言える。通常これは「パレート改善」と言われる。
これは経済学の考え方であるが、ヒースは正義論的にもこれは正しい、とするのである。
つまりこういうことだ。もしもルールを変更したとしても、それで誰の恩恵も減らず、そして一人でも恩恵が増えるのなら、その変更はありですよね? というか、そっちのほうがいいですよね? つまり、これは正義と言っていいですよね、ということだ。というわけで、これを「パレート効率性の原理」と呼んで、これをもとに正義論を展開しようというのである。
しかし、そんな場合って本当にあるのだろうか。現実にはありえるようだ。例えば、なにかの行政手続きを簡素化する、という場合はほとんどすべての人に恩恵があるから当てはまりそうだ。また基本的なインフラ整備なども多くの人に恩恵が与えられるから、当てはまりそうである。これらは経済学的には厚生経済という分類になる。
こうして、制度を変更することでより正しい状態になる場合がある、ということが分かる。
では、我々が店で買物をするようなことは正義とみなされるのだろうか。それは、パレート効率性が満たされている限りにおいて正義ということになるのである。まあ、普通、自由経済では価格の自動調節作用という市場機能が働いて、パレート最適に近いであろうから、正しいであろうと言えるのである。
ああ、良かった(笑)。道徳的に間違っているかもしれないが、売買は正義なのだ。
ところが、このようなパレート最適にならない場合がある。例えば、市場を独占して必需品のような買わざるを得ない財に高価な値段を付ける場合とか、談合して受注や値段を自分たちの都合のいいように取引をする場合だ。好き勝手にやっていい何でもありの自由経済では、市場は失敗する。そこで、独占禁止法や談合防止法のような法律を作って、パレート最適に近づくようにするのは正義なのである。このようなアプローチを「市場失敗のアプローチ」と呼んでいる。
こうして議論が進んでいくのだが、しかし、読んでいてちょっと不思議な気になる。なぜなら、ヒースは単に経済学で行われている「市場の失敗」の議論を繰り返しているだけのように見えるからだ。違いは、経済学は効率の問題だけを議論するのに、ヒースは正義を議論している、ということだけだ。しかしですねえ、なにしろ定義からしてパレート最適が正義であり、それを回復するのだから、これらは正義に決まっているのである。
こうして、ヒースは経済学と同じ議論を繰り返して、これは正義である、と淡々と宣言しているだけのように見えるのだ。
これでいいのか? 議論の余地が大いにありそうだ。
会社のビジネスについてはどうだろうか。
実は、経済学的には、会社も市場の失敗の結果生まれることになっているのである。ロナルド・コースの企業理論のことで、本当は企業はなくてもいいはずなのだが、そうするとあまりに非効率になってしまう場合があるので、会社が設立される、ということになっている。したがって企業もパレート最適を回復させるのだから正義なのであり、ほぼ現状の企業の状態はおおむね正義となってしまうのである。国の制度的なルールに従っている限りは、だが。
(しかもヒースは経営方法、利益の分配について、企業にかなり大きな裁量を認めているようだ)。
というわけで、ヒースの議論を読んでいくと、現状の制度はほぼ正義ということになるらしい。
じつは、ヒースの正義論にはパレート効率性以外にもう1つ大きな論点があって、それは分配の問題だ。なぜなら、パレート最適は効率だけを議論していて、分配は議論しないからだ。
この分配に関してヒースは、穏健な優先主義、という立場を取る。優先主義は英語ではPrioritismといって、優先席(Priority Seat)のPriorityと同じ意味だ。つまり、不遇な人に配慮する、という意味だ。穏健というのは、完全な平等までは求めないということである。
不遇な人に配慮するべきという結論の理論的根拠は、「ナッシュの交渉解」のようだ。ナッシュの交渉解では、交渉者の双方の利益の「積」が最大になるところが最も良い妥結点になる。つまり掛け算になるから、一方が大きくもう一方がとても小さい場合、その積は小さくなってしまい、そのようなポイントで妥結するのは良くないのである。だから、不遇な人にもそれなりに分配する必要がある、ということらしい。(ナッシュの交渉解はパレート効率性を満たす唯一の解らしいから、ヒースの正義の定義と整合性がある)。
実は、ヒースはナッシュの交渉解という言葉だけを書いていて、この本ではそれ以上の説明はしていない。たぶんナッシュの交渉解は2人の場合しか証明されておらず、3人以上の場合に正しいかどうかわからないから話が面倒になるので、詳しい説明を避けているのではないかと思われる。
ここまでのことはこの本の最初の3章ぐらいまでの内容ですが、そのあと延々と書かれているのは、現状の制度の追認みたいな話なので、この辺がいちばん大切なところだと思います。
簡単にまとめると、
・道徳論ではなく正義論(制度の正しさ)で倫理を構築する。
・パレート効率性が正義である。
・パレート効率性から外れた市場の失敗を制度で修正する。
・分配には穏健な優先主義を取る。
というところでしょうか。
なんかあまり意外性がなくて面白くないなあ、と思うのはわしだけ?(苦笑)
★★★★☆

