ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか

J・L・オースティン 訳・飯野勝巳 講談社 2019.2.1
読書日:2025.11.20

人間が動詞によって行為を示す表現は真とも偽とも言えない表現であり、そうすると全ての言明は人間が発するという行為である以上、それら全ての言明は真とも偽とも言えないという結論になる、と主張する本。

わしはいま旅行中で、旅行に本を持っていくのは不便であるから、タブレットでいつものようにクーリエ・ジャポンの今月の本棚を読んでいるわけであるが(ありがたい話である)、この本を読んでびっくりしてしまった。人間が何を言っても、それは真でも偽でもないというのだから。

ゲーデル不完全性定理によれば、どんな論理体系であっても、真とも偽とも言えない言明が存在する、ということが分かっている。

人間の言語でもそれは同じであり、わしの理解では、それは「自己言及のパラドックス」として現れる。例えば、
― 私は嘘つきです。
という言明は、これが真なら嘘つきなのに正直になってしまい、偽なら正直なのに嘘つきということになってしまうので、真とも偽とも言えないわけである。

しかしオースティンによれば、人間のなんらかの行為を表す言明は、それだけで真とも偽とも言えないというのだ。

人間の行為を示す言葉は何でもいいのであるが、例えば結婚式のときの誓いの言葉、
― I do. 結婚します。
は、これだけでは真にならないというのである。たとえば、この人物がすでに他の者と結婚していれば重婚となるので、この誓いは成り立たない。つまり、いろいろな付加条件がついてやっと真となるので、この言明だけでは何とも言えないということになるというのだ。

そして、そもそもこの言明は、Yes/Noで言えるような言明ではないのである。Yes/Noで言える言明とはたとえば次のような言明だ。
― 彼は東京出身だ。
という言明は、事実を確認できるので、Yes/Noで答えられる。しかし、
― I do. 結婚します。
は、そのような言明ではない。オースティンによれば、このような言明は、「適切」か「不適切」かしか問えない。

こうして人間が何かをするという表現は、すべて「適切」か「不適切」か、でしか議論できない、ということになるのだという。

これにはいちおう名前がついていて、何かをするという表現の部分、つまり適切か不適切かしか言えない部分を「遂行体」といい、真偽が問える部分を「確認体」ということになっている。

しかし議論はここで終わらない。

― 彼は東京出身だ。
という言明は、真偽が問える言明と言える。しかし、それはどこからともなく現れたのではなく、誰かがそう言明したのである。したがって、より正確には、
― 彼は東京出身だ、とあなたが言う。
というような言明になるだろう。このようにどんな言明もそれを誰かが発するとき、人間の行為となってしまい、そうなったとたん、これは「真、偽」を確認できる表現ではなくなるというのだ。

ゲーデル不完全性定理は、どんな論理体系も真とも偽とも言えない定理を含んでいることを表している。しかし、オースティンは、そもそも人間には真偽を問える言明は不可能だ、と主張しているのだ。これはちょっと驚きの主張である。

これはある意味、どんなに客観的に表現しても、人の発する言葉にはそれを発したその人のなんらかの意図が含まれてしまい、「適切、不適切」しか議論できなくなってしまう、とも言える。

現代ではネット空間にあらゆる言明があふれている。このような言明には嘘も含まれるため、ファクトチェックが不可欠だ。しかし、ファクトチェックは絶対に正しいということを証明するものではない。それは「いろいろ考えあわせると、正しいと考えるのが適切だ」というぐらいのものでしかない。これはオースティンの主張とも整合性があるように思える。

まあ、こんなふうにごちゃごちゃ考えなくても、人間の発する言葉なんてそもそもそんな程度でしょう、という気はする。そうかもしれない。しかし、哲学的に突き詰めて考えた結果そうなるというのは、どこか衝撃的である。

はたしてオースティンの主張は正しいのかどうか……いや、適切なのかどうか。

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