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複眼の映像 ―私と黒澤明

橋本忍 文藝春秋 2006.6.25
読書日:2025.11.5

巨匠・伊丹万作のたった一人の弟子である脚本家の橋本忍が、長年付き合ってきた黒澤明や黒澤組の脚本家たち、助監督との出来事をまとめ、特に黒澤明が何者だったのかについて述べた本。

非常に面白かった。

橋本忍は、わしにとっては、「日本沈没(1973)」の脚本家だ。わしはこの映画が大好きで、テレビで放送されるたびに観ていたし、いまでも配信でつい観てしまう。そして何度観てもその脚本の構成に感心してしまう。しかし百戦錬磨の橋本忍にとっては、小松左京の原作を上映時間内に収まるように脚本をまとめるのは、いつもの仕事にすぎず、楽勝だっただろう。だから本人の記憶にはほとんど残っていないかもしれない。

それに比べて、黒澤組の脚本チームにいたときの仕事は、大変だっただろう。なにか巨大なものに挑んで、本当に命を削って書いていたような気になったらしい。しかし、どんなに大変でも黒澤に頼まれればことわれない。なにしろ橋本にとって黒澤明は大恩人だ。彼のデビュー作は黒澤が監督して、ベネチア映画祭でグランプリを取った「羅生門(1950)」なのだから。

黒澤は自分で脚本を書ける人で、最初の3作は自分で脚本を書いている。しかし4作目からは共同脚本をしている。共同脚本にしているのは、ひとりで脚本を書いているとどうしても発想がマンネリ化してしまうかららしい。そこで新しい人と組んで新しい発想を入れることで、つねに黒澤はアップデートを重ねていたのだ。そのために、同じ脚本家と共同で書くのは2回までだったそうだ。それ以上だと、またマンネリに陥ってしまう。執筆スタイルとしては、共同脚本をしている側がまず第1稿を書き、それを黒澤が修正して決定稿にするという感じだ。

面白いのは、橋本は黒澤からなにか言われたら、ではこういうのはどうでしょうと、すぐにアイディアを出してみせることだ。最初の「羅生門」はもともと、芥川龍之介の短編「藪の中」を脚色した「雌雄」という作品だった。このとき、黒澤明から脚本が短すぎると言われたとき、なんの勝算もないまま、「では羅生門を入れたらどうでしょう」と言ってしまう。黒澤明には別のプランがあったらしいが、その答えをきいて、おっと思ったらしく、そのプランを採用する。人のプランでないと新しいことに挑戦できないからそうするらしい。

こんな感じだから、「羅生門」、「生きる(1952)」と2作品続けて共同脚本をして、これで黒田組から卒業だと思っていたら、3作目も依頼された。それがあの「七人の侍(1954)」だ。だが、企画が難航し二転三転して行き詰まったとき、武者修行をして全国を旅している侍はどうやって旅費を稼いでいるのかということを調べさせた。すると、当時は武者修行の侍は旅費がなくても旅ができたのだという調査結果を得る。道場や寺を渡り歩くと無料で泊まれたらしい。そして道場や寺がないところでは、百姓に雇われて寝ずの番をすると、食料をもらえたのだという。

――百姓が侍を雇う

この話を聞いて、橋本と黒澤は目を合わせて、「できたな」と言ったという。そしてその場で、侍の数は七人だということも決まってしまう。「百姓が侍を七人雇って、襲ってくる山賊と戦い勝利する話」。26文字でテーマとストーリーが完璧に一致している。こんなことは百のうち2、3あるかないかだそうだ。

ところで、共同脚本家が第1稿を書いている間、黒澤明が何もしていないかというとそうではない。黒澤明は画家でもあるから、登場人物の絵をたくさん描いて、人物像の深堀りをしているのだ。橋本によれば、映画はテーマや物語の筋がどんなによくできていても、人物ができていなくてはだめなんだそうだ。

橋本は黒澤の絵を見て、このままでは自分は脚本で黒澤に勝てない、と感じたそうだ。黒澤の絵に匹敵するなにか手段を講じなければ、と思ったという。そこで絵を描けなかった彼が取った手段が、人物観察だったのである。

具体的には山手線に乗ってぐるぐる回って、車内にいるこれはという人物を観察する。その人物が一体何の仕事をしてどんな生活をしているのか、いろいろなシチュエーションを想像して、人物を造形をする。最後はその人が降りた駅で改札まで一緒に行き、町の中に消えていく様子を見送ったのだそうだ。だから、その町は新宿や上野などのような乗換駅であってはいけない。その人が実際に住んでいるであろう町の駅でなければならない。住んでいる町がその人物の造形に大きな影響を与えるからだ。こうして60〜70人分の人物像をストックしたのだという。このストックのおかげで、以降の映画の脚本で人物造形に困ったことはないそうだ。面白いのは、このストックは記憶の中では駅名でマッピングされているそうで、取り出すときには、あの駅のあのキャラクターという感じで取り出すという(笑)。

七人の侍」はあまりに傑作すぎた。実際、世界の映画史に残るような事件だったのだ。あまりにも傑作だったため、橋本は、今後これ以上の作品は書けないのではないか、という焦燥感に駆られたそうだ。そのとき、師匠の伊丹万作の幻が現れて、こう言ったのだという。お前も苦しいが監督の黒澤明のほうが何百倍も苦しい、と。

この本では、このような幻視と思われるようなシーンがよく出てくる。橋本忍はこのような幻視を本当に見たのだろうか。それともこれは彼のお得意の脚色なんだろうか。わしは、橋本忍は本当に幻視を見やすい体質だったのではないか、という気がする。

七人の侍のあと、黒澤明は映画の制作スタイルを大幅に変えたのだそうだ。これまでは、脚本を何回も練り直し決定稿を用意してから撮影を開始していた。しかし、それ以降は、数人で競作のように最初から脚本を作り、第1稿が「いきなり完成稿」というスタイルになったそうだ。

橋本の推測では、その理由はこうだ。完璧な脚本を用意するという、今までと同じ作り方をしていては、七人の侍を超えることはできない。だから、偶然が入り込む可能性が高いスタイルにしたのではないか、という。この方法では映画の出来不出来の差が大きくなる。実際、このスタイルで成功するまで時間がかかった。成功したのが「用心棒(1961)」や「天国と地獄(1963)」だそうだ。しかしリスクが大きく、記録的な不入りの作品も出てくる。こうして黒澤に映画制作のチャンスがなくなってしまった。

しかし黒澤は強運の持ち主だと、橋本はいう。ソ連から「デルス・ウザーラ(1975)」の制作依頼が舞い込み、黒澤は復活する。そして「乱(1985)」の脚本を完成させたが、残念ながら制作費が高すぎるので撮影に入れなかった。そこで制作費が少なくて済む「影武者(1980)」を急いで用意して、先に制作している。

橋本さんは、「乱」や「影武者」を観るのが辛かったという。ここではすでに共同脚本の体制が完全に崩壊しており、黒澤明自身が前面に出ている。そして黒澤の感情移入が激しすぎて、娯楽作品としては破綻している。しかし橋本はこの段階では、黒澤はすでに過去の自分を超えるために、アーティスト的な手法に挑戦していたのだと判断している。それはこの2作品ではうまく行かなかった。それがようやく成功したのが、「夢(1990)」だというのだ。「夢」でようやく、黒澤明は、アーティストとしての自分を出すことに成功した。この中でゴッホが出てくるが、黒澤はゴッホの姿を自分に重ねているのだそうだ。

そして、じつは「夢」は、橋本忍が黒澤作品の中でもっとも好きな作品なんだそうだ。

一方の橋本忍の方は、「七人の侍」以降、どんな経過をたどったのだろうか。橋本忍は売れっ子脚本家の地位を盤石なものにして、数々のヒット作を飛ばす。わしが好きな「日本沈没」もそうだし、その後、橋本プロを設立して制作に進出し、「砂の器(1974)」、「八甲田山(1977)」を制作して大ヒットをとばす。さらに「八つ墓村(1977)」も大ヒットし、橋本忍はヒットメーカーの名をほしいままにした。

そんな絶好調の1977年の年の暮れ、「砂の器」の監督である野村芳太郎に、つい「黒澤明にとって、私はどういう存在だったのでしょう」と聞いてしまう。その時の野村芳太郎の回答に橋本忍は言葉を失ってしまう。

――黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです

というのが、その回答。そして、「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」という作品はなかったほうが良かった、というのである。もしも、それらの作品群がなかったとしても、黒澤はビリー・ワイルダーとウイリアム・ワイラーを足して二で割ったような世界的な監督になっただろう、面白いものを数々作り世界中の映画ファンを楽しませたはずだ、しかし橋本忍に出会ったために、映画に無縁な思想とか哲学、社会性を持ち込んでしまい、妙に構え、重い、しんどいものになってしまった、というのである。

ちなみに、野村芳太郎は非常に頭の切れる人で、スティーブン・スピルバーグの「ジョーズ」を見て、この作品にはNGカットがひとつもない、スピルバーグからこれ以上の作品が生まれることはないから今後の作品をもう観なくてもいい、と言ったのだそうだ。その言葉を真に受けて、本当に橋本は「ジョーズ」以降一本もスピルバーグを観ていないのだそうだ。(技術の点からはそうかもしれないが、「未知との遭遇」と「マイノリティ・リポート」はみておいたほうがいいと思うけどなあ。SFファン限定かもしれないけど)。

ちなみに、松竹の城戸(きど)社長は橋本に、「砂の器」はとんでもない迷惑だった、と述べている。じつは野村芳太郎を松竹の将来の社長にしようと思っていたが、「砂の器」が当たってしまい野村が監督に専念することになって、その話がなくなったからだという。野村芳太郎の出来の良さがよく分かるエピソードだ。

そんな好調な橋本忍だったが、「幻の湖(1982)」で大コケをしてしまう。わしはこの作品をじつは観ていて、なんでこんなへんてこりんな作品を作ったのか、橋本忍の話を聞いてみたいと思っていたのだが、この本で橋本忍はちゃんとそのことを書いてくれていた。どうやら、この脚本の発想はほとんど思いつきだったらしい。

以前、橋本は同じ黒澤組の脚本家、小國英雄から忠告を受けていたのだそうだ。橋本は腕っぷしが強すぎて無理なシチュエーションや不自然なシチュエーションを作るが、このような作品は失敗する可能性が高いから注意するように、と。

現実はそのとおりになってしまったようだ。「幻の湖」は、こんなふうに作られた。「砂の器」と「八甲田山」は歩く話だったから今度は走る話にしよう、そこにソープランド嬢と宇宙飛行士と戦国時代の話が絡み合う話にしよう、という、いろんな題材を無理矢理結びつけて作ったお話だった。

きっと橋本忍は偉くなりすぎて、無謀な脚本に懸念を示すことが誰にも出来なかったのだろう。自分でも失敗すると思ったときには、もう後戻りができなくなったタイミングだったそうだ。

このあと、橋本忍は本格的な脚本を書かなくなる。業界から干されたと言われたが、実際には体調を崩して、腎臓を片方摘出するなど、入退院を繰り返すようになってしまったからのようだ。

橋本忍は、2018年に100歳で亡くなっている。

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