ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

なめらかな社会とその敵 PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論

鈴木健 筑摩書房 2022.10.10(オリジナルは勁草書房、2013年)
読書日:2025.10.19

複雑な世界を複雑なままに生きられる社会は可能なのか。300年後に可能となるかもしれない社会をラディカルに検討してみせた本。

資本主義の基本原理である私的所有や新しい投票方式をラディカルに考案した本はこれまでも読んだことがあった。たとえばこれだ。

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しかし、この本より以前に、それも日本人がそれ以上にラディカルな方法を提案していたことに驚きを禁じ得ない。

その考え方の基本は、複雑な世界を複雑なままに生きたい、ということである。

この言葉は誤解を呼びそうだ。ほとんどの人は複雑に生きたいのではなく、シンプルに生きたいと思うのではないだろうか。すでに生きることは複雑すぎて、我々は疲れている。

だが、ここではそういうことを言っているのではない。生きているそれぞれの人は自分の思いのままに自由にシンプルに生きてよいのである。しかし、各個人がそのように自由に生きるということは、社会全体でみると非常に複雑になるということだ。これは、すべての人が望むあらゆる多様性を認めるということと等しいのだから。

普通はそんな複雑な社会は管理できない。それで現状は、ある枠を作って、その枠の範囲で管理する。そして個人の思いはその枠に合わせてねじ曲げられている。

しかし、もしも莫大な計算パワーがあれば、そんな複雑な社会も複雑なままで管理できるようになるかもしれない。そうであるなら、複雑さをコンピュータの中に押し込めてしまい、わしら自身は枠を取り払った社会で自由にシンプルに生きられるかもしれないのだ。いまはまだそのような計算パワーは存在しない。しかし、300年後の24世紀にはそのような計算パワーが手に入っているかもしれない。

そのような枠を取り払ってゆるやかに接続している社会を、なめらかな社会、と鈴木さんは呼んでいる。

そのような計算パワーを何にどのように使えばなめらかな社会を実現できるのだろうか。鈴木さんがまず実現しようとするのは、PICSYという名の通貨である。他の話よりも比較的、数学的な明確さがあり、莫大な計算パワーがあればもしかしたら社会に実装できるかもしれないものだ。しかしこれはとてもへんてこりんな通貨なのである。(まあ、通貨という存在自体がそもそもへんてこりんであることは差し置くとしても、だけど)。

では、とりあえずPICSYについて見ていこう。

(1)伝播型投資貨幣システム PICSY:Propagational Investment Currency System

通常は経済取引をすると、その価値の伝播はその1回だけ測定されて終わる。

しかし、PICSYにおいては、aがbに何か財を売っても、bがさらにcに売った場合、aとcの間の価値の伝播も計算するのだ。たとえば、aがbに財を売ったとき、bから見たaの貢献した値(割合)を0.3とする。そしてcから見てbの貢献した値を0.2とする。そうすると、cから見てaの貢献した値は、0.3✕0.2=0.06ということになる。

貢献した値とは、その財における付加価値と考えて良い。そしてこの場合、その財の価値に貢献した割合を示しており、1以下の数字になっている。掛け算になっているのは、cから見てbの貢献した値0.2(20%)のうち、そのさらに0.3(30%)の分がaの貢献だからだ。

このように取引が連鎖している間、最初に財を売ったaへ対する評価が常にさかのぼって計算されるのだ。

なぜこんなことをするかと言うと、経済というネットワーク全体に対する個人の貢献を正確に把握するためだ。そして、こうして販売した財が、思わぬ形で経済に大きく貢献した場合、おおもとのaの評価が大きく上る可能性があるのだ。

ここで、ネットワークに参加しているすべての人(N人)の間の評価値を計算する。それはN✕Nの行列式、評価行列Eとして表現できる。この評価行列Eの固有値EaaやEbbを計算すると、それがその人のネットワーク全体に貢献した評価値だ。この評価値が、そのままその人に通貨として与えられる。これがPICSYという通貨なのだ。

価値の伝播を計算するから「伝播型」という。そして、その行為がどんなつながりでどんな効果を発揮して評価値が上がるか分からないから、これは一種の投資のようなものだと考えるのだ。これが「投資通貨」と呼んでいる理由である。(本では、イチローの学生時代にラーメンを食べさせたラーメン屋の主人が、イチローが大物の大リーガーになったとき、大きな評価をえる、というたとえ話が語られる。ラーメン屋はイチローの将来に投資したことと同じだというのだ)。

さて、ほとんどの人は限られた人としか取引しないから、評価行列Eの各成分はほとんど0になるのではないかと考えるかもしれない。もしそうならどんなに計算が楽だろうか。しかしそうではないのである。

たとえば、わしらが持っているどの物品についても、ここに届くまでどれだけの人が関わっているかちょっと考えても数え切れないほどである。そして、すべての人類は、最大で6次の隔たりでつながっているという仮説がある。そうすると、わしら一人ひとりは限られた人としか直接つながっていなくても、ほぼ全人類と間接的につながっている可能性が高い。そうなると、各成分は0にはならないだろう。したがって、その計算はガチで膨大なものになる。

それだけではない。どうもPICSYでは過去のすべての取引を累積的に評価するらしいのだ。そうでなければ、何10年か後に投資効果が現れた場合に評価ができないだろう。過去にさかのぼった取引のデータがあり、なにか新しい取引が行われるたびに評価が再計算されなければならない。そういうわけでこの評価計算には膨大な計算パワーが必要なのだ。いまはそのような膨大な計算パワーは存在しないが、300年後の24世紀にはあり得るかもしれない。

では、このような伝播型の評価が、なぜ「なめらかな社会」につながるのだろうか。

それはすべての価値を個人にまでさかのぼって評価するからだ。たとえば取引の途中に会社が入っているかもしれない。しかし、会社の中で個人が加えた付加価値を厳密にデータ化できれば、会社の存在は問題ではなくなる。すべてを個人に対する評価に還元できれば、このような会社という枠、さらには国家という枠も超えて、個人の経済への貢献が直接評価できる。このように枠を超えることが、社会がなめらかになるということであり、複雑なまま生きることだ、というのである。

なるほど、言いたいことはわかった。しかし、単純に考えても、PICSYは根本的な問題を抱えている。

じつはこのようなネットワーク型の経済を、わしらはすでに疑似体験している。それはユーチューブやTikTokなどのSNSにおける経済である。ここではインフルエンサーがフォロワー数やいいねの数、つまり評価を競い合っている。SNSの世界で何が起きているかを観察して、PICSYに何が起きるのかを類推してみよう。

このようなSNSを観察してすぐに分かるのは、ごく少数のインフルエンサーが巨大な評価を集めているということである。最初はこのようなインフルエンサーたちも、コンテンツの中身、つまり付加価値で評価されていたのかもしれない。しかし、評価が高まるとともに、評価が高いという事実によって、つまりフォロワー数が多いという事実によってますますフォロワー数が増えるという現象が生じる。そしてインフルエンサー同士の格差は、べき乗的な巨大な格差になっている。

これをPICSYに当てはめると、PICSYに何が起きるのだろうか。

おそらく、PICSYにおいても、財に付加価値をつけて伝播させるよりも、ネットワークのつながりを増やしたほうが多くの評価を集めやすいということになるだろう。そしてPICSYにおいて、評価は収入そのものである。そうすると、付加価値をつけようと努力するのではなく、単につながりを求める活動が盛んになるのではないだろうか。

そしてひとたび巨大なハブとなる個人が誕生すると、それは容易には消えないことになるだろう。なぜならばつながっている事自体に価値があるのだから。しかも過去のデータがそのまま累積的に評価されるのだから、評価の逆転は難しい。そしてその評価の格差は時間が経つにつれて広がり、ついにはべき乗の格差になり、文字通り桁違いのものになるだろう。

経済の基本は付加価値を付けることにあるはずである。しかし、この経済では付加価値を付けるよりもネットワークのつながりを充実させたほうが簡単に評価が得られ、収入が増える社会になりかねない。これは経済活動にとって本末転倒なことではないだろうか。

他にも、ちょっと考えるだけで、PICSYに対する疑問はたくさん出てくる。

・価値が伝播していく複雑なネットワークの中で、なにがどこでどんなふうに評価されたのか、納得性があるように説明できるのだろうか。評価が上がる場合はまだしも、評価が下がる場合には納得性を得るのは難しいのではないだろうか。つまり、評価機構がブラックボックス化してしまい、透明性に問題が生じるのではないだろうか。
・どこでどう評価されるか分からないブラックボックスでは、これは投資というよりはギャンブルの感覚に近いのではないか。
・過去の経済活動の累積が評価になるとすると、前例のない経済活動に対する評価は低くなるのではないか。そうすると官僚的な前例踏襲が最善策となり、新しい試みがされない可能性がある。現在の経済システムでも新規なことは評価が難しいが、PICSYのもとでは、過去のデータが非常に強固であり、新しいことに対する評価はさらに厳しくなる可能性がある。そうすると社会に官僚的な風潮が蔓延する可能性がある。
・著者本人も認識しているようだが、銀行がやっているような貸し出しによる信用創造は難しくなるだろう。しかし銀行による信用創造はまだ可能かもしれない。だが、PICSYのような通貨では、現在の政府がやっているような、ある額の通貨自体を無から創造するような行為はあり得ないだろう。そうすると、政府でなければできないようなリスクが高い巨大プロジェクト、たとえば宇宙開発などはどんなふうにやるのか、ちょっと想像するのが難しい。
・すべての経済活動が記録されているというのは、個人の活動がすべて記録されているのに等しい。すると、個人のプライバシーはどのように確保されるのか。その気になれば、中身を見る権限のある人は誰か特定の人のすべての活動を見ることができてしまうのではないか。そう考えると、いま中国で行われているようなプライバシーのないデジタル信用システムのようになるのではないか。
・すべて自動計算されるPICSYという通貨でも、評価値を意図的に変えられるような権限を持つ人がいると、恣意的な評価の変更の可能性は排除できないし、汚職の可能性も排除できないのではないか。

そういうわけで、PICSYが実装された世界にいる自分を想像すると、夢のようなシステムという感じはまったく受けずに、悪夢の世界にいるように感じるのではないか、という気がする。まったく評価されない人はどのように承認欲求を満足させればいいのだろうか。そして自分の預かり知らないところで自分に対する評価が下されていると、カフカの世界にいるような不条理な気分が味わえるのではないだろうか。いや、まじで。

さて、PICSYに関する議論はこのくらいにして、ほかの議論もいくつか見ていこう。以降の議論は簡単に済ませるつもりだ。

(2)分人民主主義 Divicracy

分人主義の基本的な考え方は、一人の人間はいろんな分人により構成されているという考え方だ。例えば父親としての自分とか、社会人としての自分とか、趣味を楽しんでいる自分とか、そんな感じで。

だからひとり一票の投票権でも、それを各分人に分離して0.2票とか、0.3票というふうにわけて投票できるというのが分人民主主義だ。そしてその分けた投票権は直接投票しても良いし、誰か自分の信頼できる人に委任してもよい。委任した場合は、委任された人がまた別の人に委任するというふうに、この委任は伝播していき、最終的な投票が行われることになる。こうしてなにかの意思決定や、その分野の代表を決めることができる。これを鈴木さんは伝播委任投票システム(Propagating Proxy Voting System)と呼んでいる。

このような投票形式なら、中間の組織はPICSYにおける会社と同じように仮想化されるから、枠にとらわれずに代表を決定するということで、なめらかな社会ということができる。この方式はさらに国家を超えて運用することもできる。

この分人民主主義でも、いろんな疑問が思い浮かぶ。たとえば、このように決まる代表にどのくらいの権限が与えられるのかとか、リアルタイムできまる代表者が数日ごと、あるいは数時間ごとに揺れ動いた場合はどうなるのかとか、ネットワーク上の巨大ハブとなっている個人に委任が集まり大きな決定権を持ってしまうのではないかとか、権限が弱いと非常時に代表者は強力な対策が打てないのではないかとか、そのような懸念が浮かんでしまう。

しかし、これはPICSYの実装よりもはるかにイメージしやすいし、実装するときの障害は少ないと言えるのではないか。計算量も少なくて済みそうだし、やろうと思えば現在でもできそうだし、それなりに機能するかもしれない。

(3)構成的社会契約論 

何のルールも存在しない世界があったとして、そのままでは生活も人生も成り立たないから、人々は集まって全員でルールを決めた。このようにみんなで決めた約束のことを社会契約という。たとえば国で言えば、それは憲法だ……などとということになっている。

だが、実際には、憲法は国民全員が契約したわけでもなく、誰かが勝手に決めたものだ。そのようなルールをわれわれは押し付けられている。そうではなく、社会契約も個人間の約束をもとに作れないだろうか、と鈴木さんは主張する。

いろいろな約束があるだろうが、そうしたルールの中には、いつでも変えても良い軽いルールもあれば、なるべく変えないほうがよく、変えることに抑制的な重いルールもあるだろう。そのような抑制的な重いルールを集めれば、それは憲法のように機能するだろう、というのが基本的な考え方だ。

このようにルールはどのような単位で決めても良い。

複雑な世界を複雑なままに生きるということは、この世界にパラレルワールドがたくさんあることと同じだという。すると社会契約は地域ごとにあってもよく、このようなパラレルワールドごとにあってもよい。こう考えれば、法もある意味、自由に決めていいものなのだ。

しかしそうすると、実際にどのようなルールが決まっているのか人々は確認しなければならず、複雑になる。今自分が存在しているパラレルワールドでのルールが、どのようなものなのか、すぐにはわからないだろう。

そこで鈴木さんは、法律の中にプログラムを埋め込んで、そのルールが着実に実行できるようにすることを提案する。人間がいちいち確認しなくても法律は自動実行されるというわけだ。

法律は自然言語で表現されると曖昧さが残るから、このようにプログラムを組み込めば明確になると鈴木さんは主張する。

このナイーブさに、わしは微苦笑を禁じ得ない。どんな論理にも真か偽か判断できない状態があることは、ゲーデル不完全性定理が示しているところだ。だから、きっと曖昧な状況が残って問題になるだろう。

しかしこのように法自体が自由で可変的なものになるとすると、(法治)国家自体が存在できなくなるだろう。もしも本当にこのようなシステムが実装された場合は、その日は国家解体の日として記憶されるのかもしれない。

(4)敵
 カール・シュミットは「政治的なものの概念」で、政治という概念を「公的に敵と味方を区別すること」と定義しているそうだ。そしてその敵という存在が、味方をせん滅するという意志を持っていれば、すなわちそれは戦争ということになる。なめらかな社会は戦争を回避できるのだろうか。

もともとこのような敵と味方を峻別するような発想は、なめらかな社会にあわない。そこでこの区別もなめらかにしなくてはいけないと鈴木さんは考える。たとえば、60%敵で40%味方、みたいななめらかな状態を作れないだろうか。そうすれば、なめらかになるのだと主張する。

確かにこのように敵と味方を曖昧にできれば、戦争が起こる可能性を減らせるのかもしれない。(この設定をどんなふうに機能させるのかは、さっぱり理解できないけれど)。

ただ、この本の中ではいろいろな考え方が錯綜しており、この問題に関してはいまのところ、明解な解答はなさそうだ。

(5)私的所有の生物学的起源

わしの文章では最後になったが、この本では最初の方で議論していることである。

人類が生物の一種である以上、人類の文化的な起源は生物学に求められるのだと鈴木さんは主張している。それは生物の最も基本的な構成要素である、細胞に求められるという。

細胞というのは、細胞の外と内とを細胞膜によって分ける、ということが基本である。このようにして、生きるための化学物質を細胞内に確保する。細胞の中では非常に安定した状況を作り出し、外の世界の影響が及ばないようにする。

この細胞膜で自分の生存に必要な物質を囲ってしまうという状況が私的所有の起源だというのである。

そして細胞の中心には核があり、核はDNAで細胞をコントロールする。DNAは記号であるから、核は非常にローコストで簡便な、記号の操作ということを通して細胞をコントロールしている。(鈴木さんは、これを小自由度で大自由度を制御する、と表現している。)

このような細胞の構造を、人はその社会にも模倣しているという。たとえば国は自分を国境で囲い込み、中央政府がその内部を争いがないように安定にコントロールしているというふうに。

このように膜で囲い込むと、膜の内と外を区別して考えられるから、考え方がシンプルになるというメリットがある。しかし膜は内と外を峻別してしまう。こうして内と外があまりに明確に区切られていることが問題だと鈴木さんはいうのである。なめらかな社会とは、この膜の区別する能力を下げて、内と外をなめらかにつなげるということなのだ。

こういう発想をどう思います? わしなんかは、生物的な起源を持っているのなら、それは根本的なものだから、無理に複雑な世界を複雑のまま生きるよりも、今までと同じように膜で囲ったほうがいいんじゃないかって、逆に思ってしまうんですけどね(苦笑)。

(おまけ)小説・「なめらかな世界と、その敵」という題名に元ネタがあったことを初めて知りました(笑)。パラレルワールドの話という部分においてだけ、本書と内容が一致している。

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