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仏教入門

南直哉 講談社 2019.8.1
読書日:2025.9.5

ブッダが発見した悟りとは無明(むみょう)の発見であり、無明とは言語により述べられたことが実体であると錯覚させることであり、それにより人に苦が生まれる、という考えが仏教の根本的な本質だと主張する本。

ブッダは悟りを得たが、悟り自体がどんなものなのか語らなかった。だから、悟りを得たあとに語った内容からそれを推測するしかない。

ブッダが悟ったあとに最初に語ったのは、十二支縁起であり、その第一支が「無明」である。「無明」とは、「根本的な煩悩としての無知」のことだそうだ。

言語とは物事の関係性を示すものだという。

例えば「私」に「名前」があれば、その名前につながるいろいろな関係性が(父母とか友人とか)あり、私はその関係性の結節点として存在する。言語の単語はすべてそれ自身が存在するのではなくて、そのまわりとの関係性を示しているにすぎない。つまり名前自体は実在していない。「私」や「名前」は言語によって設定されたフィクションにすぎない。

ところが単なる関係性を示しているはずの言語が、それ自体が実在していると錯覚を起こすと、「私」というものが実体化して自意識となり、「私とはなんだろうか」とか「私はなんのために存在しているのか」などと考えるようになり、それが人間を苦しめるというのである。他の動物には見られない、高度な言語機能を持つ人間特有の悩みがこれなのだという。

これを乗り越え、悟りに達するには、たとえば座禅により、言語機能を低減して判断を停止する。そうすれば対象は言語化不能のものとして、それは「何だ?」となる。この「何」に直面して、そのまま直面にとどまると、それは「非思量」という状態になる。「どのように」考えていいかわからない状態をそのまま維持して、言語に回収しきれない事態に直面し続ける「非思量」においては、自己―対象の二元構造は機能せず、自意識は溶解する。

このようなことが座禅で体験できれば、言語による物事の実体視という錯覚(無明)は、おのずから実証されるという。

自己というものは自己以外との関係性の中に存在する。この関係性が「縁」であり、そのような存在の仕方が「縁起(えんぎ)する実存」なのだそうだ。

この南直哉の意見では、ほぼすべての人の悩みのもとは、言語にあるようだ。しかも世界の中の自分という状況はマルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」という状況(自分が含まれている世界は取り出して提示できない)という表現に似ているような気がする。また、自分の存在は自分だけを取り出して述べることはできず周囲との関係性でしか定義できないというのは、量子力学の相互作用による観察と似ているし、オードリー・タンのプルラリティに出てきたIDの定義とも似ている。

どうやら仏教は、いまでも認識論の最前線を独走しているようだ。

★★★★☆

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