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リベラリズムはなぜ失敗したのか

パトリック・J・デニーン 訳・角敦子 原書房 2019.11.27
読書日:2025.8.7

リベラリズム自由主義)は成功しすぎたために失敗したと主張する本。

かなり衝撃的な本である。といっても、それはわしにとってであって、この辺に詳しい人にはすでに常識なのかもしれない。

わしにとってリベラリズムのいう「自由」というのはファンタジーのたぐいだった。本気にしていなかったのである。ここでいう「自由」とはホッブズ(16〜17世紀)やルソー(18世紀)の発案した自由のことであり、それまで人類になかった新しい自由である。たかだか500年程度の歴史しかないものである。

それを理解するためには、まず「自然人」(または自然状態)というものを理解しなくてはいけない。

自然人とはこの世に誰とも関わりなく生まれた人のことである。普通に考えれば、どの人にも生まれたとき、親もいれば、所属している社会もあるだろう。しかし、ここではそのように考えない。突然、なんの理由もなく、たとえば森の中に誕生したと考えるのである。ホッブズはきのこのように生えたと表現している。だから、この自然人とは、自分以外の人がおらず、たったひとりの状態の人間のことなのである。

こんなことはありえないだろう? だからファンタジーなのだ。思考実験であり、リアリティはまったくないのである。リベラリズムはこんなありえない、納得し難い状況から議論を展開するのである。

しかし、このような思考実験でわかることもある。この自然人にはなんの束縛もない。自分の思うがままに生きられるのである。なんでもやりたいようにやっていい自由がある。ある意味究極的な利己主義なのである。そしてこれが近代に誕生した新しい「自由」なのだ。そして、このような自由を求めることをリベラリズムという。

では、古くからある自由とはなんだろうか。新しい自由と何が違うのだろうか。

古代からの伝統的な人間観では、人は生まれた直後はなんの力もなく、自由ではないのである。修養を積んで、徳を高め、一人前の人間として認められることで、やっと自分で自分のことを決めてもよいという状態になる。つまり、これが自由なのである。昔からある古い自由は、自分勝手に何でもしていいということではない。自由になるためには、社会の中で生きていくための知恵や徳、たとえば自省のような謙虚な徳を得ることが必要なのだ。このような人間になるための教養、これをリベラルアーツという。

古い自由は、わしにはまともに思えるし、納得感がある。なにより、社会というものが自由の中に織り込まれている。人は生まれながらに社会的な動物なのだから、こちらの自由の方が現実に近いだろう。

しかし、リベラリズムが語っているのは不自然な「自然人」の自由なのだ。

自然人の話には続きがある。ただひとりのはずの自然人が2人いて、どこかで偶然出会ったらどうなるか。このとき、戦うのか、逃げるのか、仲良くするのかという選択肢があるが、ずっと付き合うとすると、ルールを作る必要があるだろう。お互い自由に生きたいなら、そのルールはできるだけ少なく最低限のものになるはずだ。

2人ではなくて、さらにもっと多くの人間が集まるとすると、みんなで最低限のルールを作ってそれを守ると約束する必要がある。その約束は皆の自由をできるだけまもるために存在している。その約束のことを「社会契約」という。こうしてルールを作り、ルールがきちんと守られるように強制するための機関が作られる。これが、「国」だ。

この「国」はリベラリズムの理想を実現するために存在する。言い換えると、すべての人に「自然人」の自由を最終的に提供するために存在する。

現実の世界では、人はいろんなしがらみに束縛されている。たとえば家族だ。家族が先祖代々農業をしていたり、工場を経営していたりしていて、親は子供が家業を継ぐべきだと考えているかもしれない。しかし、リベラリズムは、人は家族に縛られるべきではない、と考える。だからそんな親の願いは拒否してよいという。国は職業選択の自由という自由を設定し、それを国民に強制するのである。

つまり、国はそのようなしがらみから人を解放しようとする。人はどんな職業についてもいいし、国内ならどこに住んでもいいし、誰と結婚してもいい。もしも子供の存在が自分の自由を減らすと考えるのなら、子供を作らなくてもいい。すべて利己的に決断してかまわない。

そうすると奇妙な状況ができあがる。

リベラリズムは、人をしがらみから自由にするという名目で、人にまつわるすべての社会的、文化的なものを破壊する方向に働く。そうやってすべての、家族、土地、共同体、地域、宗教、文化との絆が断ち切られたあとに人に残るのは、国との関係だけである。国だけが人と確かな絆を結ぶという状況なので、その人は国の中央集権化を認めるしかない。そして、なにか問題があったとしても国だけがそれを解決できると考え、国に働きかける。解決のために国は新しい機能を身につける。こうして国はますます強力になっていく。そのように自動的に国が強くなっていく仕組みがリベラリズムに内蔵されているのだ。

デニーンのいうには、一度このような状況になったら、もとに戻せなくなる。国民の中には、リベラリズムはだめだ、昔のリベラルアーツの自由に戻ろう、と唱える人もいるだろう。右派の保守派の中にそういう人がいる。これが左派だったら、そもそもリベラリストであり、もっと自由化を進めようとするだろうから、ますます国が強力になるのは分かる。しかし、それに反対する右派の人も国を強力にするというのだ。国以外の絆はすでに断たれているのだから、右派の主張が国民の大多数の支持を得たとしても、それを実行する機関としては国しか残っていないのである。右派は国を使わざるを得ず、結局、国家は強力になるのである。

つまり、左派にしても右派にしても、単に国か人かのどちら側に寄り添っているかという違いでしかなく、このリベラリズムの構造の一部でしかない。このシステムの内部にいる限り、左派も右派も結局マッチポンプのように国を強力にしていく手助けをしているに過ぎないことになる。

しかし、そうだとして、リベラリズムのいったい何が失敗したのだろうか。

(1)国が強力になりすぎて、個人は国に隷属しかねない

リベラリズムの目標は自然人の自由を人に与えることであるけれど、その目標は永遠に達成されない。目標とする自然人の自由自体が有り得ないくらいファンタジーだからだ。この目標を追求すればするほど、現実世界はファンタジーになっていく。そして、その目標を追求するために、国はどんどん強力になって行かざるを得ない。すでに国は国民を束縛する最大のものだ。このまま行くと、自由を達成するという約束は守られないどころか、逆に国民は国の隷属状態になり、自由を失うことになりかねない。

(2)多様性のない単調な世界が出現した

すべての人がありのままの自分として存在できる、これがリベラリズムの約束だったはずだ。もしそうなら、この世の中には多様な文化や社会があふれていてもいいはずだ。しかし、リベラリズムはすべての文化、社会的な絆を破壊するから、逆に世界は均質化している。現代で個性と言われているものは、ほとんどが消費者としての個性に過ぎず、赤い服がいいか緑の服がいいかといった、消費者として好みの商品を選択ができる、という程度のものになっている。

(3)格差が広がり、新しい貴族が出現した

そもそもリベラリズムは格差を許容している。利己的に好きなことをやって、成功してお金持ちになることは問題ないと考えている。リベラリズムは格差には直接回答せず、金持ちほどでないにしても、貧困層も以前よりは豊かになれる、というごまかしの約束をする戦略をとっている。経済成長の果実がすべての人に行き渡っている間はこのごまかしは機能した。しかし、最近では貧困層はさらに貧困化しており、ごまかしが効かなくなってきている。さらにこうしたお金持ちたちはエリート層を形成し、国の政策に関与して、新しい貴族になっている。リベラリズムは王や貴族のような封建的な権威から人びとを解放するというのが約束だったはずだ。なのに、リベラリズムのシステムのなかに新しい貴族階級が出現したということは、もともとの約束に違反している。

このような問題は、現代の問題として、これまでも指摘されてきた。その解決策として提案されているのは、リベラリズムの枠内で、国に新しい機能を加えようというものだ。しかし、デニーンが指摘するのは、リベラリズムの矛盾が原因というもので、システムの根幹にかかわるものだ。つまり、リベラリズムの枠内では問題は解決できないと言っているに等しい。このまま矛盾が拡大し続けると、リベラルデモクラシーは崩壊してしまうかもしれない。(すでに崩壊して、寡頭政治になっているという人もいる)。

デニーン自身はこの問題はどのように解決できると言っているのだろうか。彼はかつてアメリカにあったタウンシップに注目している。

19世紀のアメリカには、町の問題を自分たちで話し合って解決するという習慣があった。国はまだ遠い存在だったので、自分たちで解決するしかなかったからだ。そこでは人びとは利己的な存在ではなくて、公共的(パブリック)な存在として、問題の解決にあたった。そこには、リベラリズムのいう自然人の新しい自由ではなくて、昔からの古い自由があったのだ。

しかし現代にかつてのタウンシップ、またはパブリックをどのように再現すればいいのだろうか。その方法はわかっていない。

デニーンはリベラリズム現代社会のOS(オペレーティング・システム)なのだという。OSはどうやらアップデートされなければいけないようだ。でもOSのバージョンアップ版はまだコーディングされていない。

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