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スピノザ 人間の自由の哲学

吉田量彦 講談社 2022.3.1
読書日:2025.6.21

スピノザ・マニアの研究者が、スピノザの人生からその考え方の根本までをなるべく平易に解説した本。

スピノザって世界史か倫理学で学んだ「汎神論」という言葉が思い浮かぶだけで、正直、意味不明(笑)。まったく関心がなかったが、この本を読んで、思いのほかわしの発想に似ているのに驚いて、急に関心が湧いてきた。それは世界的にもそうらしく、スピノザが世間的に見直されてきたのは、20世紀の後半に入ってきてかららしい。

そういったスピノザ見直しの潮流の中で学者になった著者の吉田さんは、スピノザに人生をかけようと思ったらしい。本物のスピノザ・マニアになってしまい、スピノザに関することならどんな小さな事実でも突き止めたいと考えているようで、その熱量がこの本に溢れている。そうした熱量はわしにも少し移ったのかもしれない。

吉田さんは博士論文からずっとスピノザ一筋で、哲学の膨大な領域すらもスピノザを通して理解しているようなところがある。本人はこれを「定点観測」と言って読者にも勧めているわけであるが、まあ、実際に本人がやってきたことがそれで、吉田さんはそれ以外の方法は取れないでしょう(苦笑)。

スピノザの生涯を簡単に書くと、スピノザポルトガル系のユダヤ人だ。レコンキスタの後に無理やりカトリックに改宗させられるのを嫌ってオランダに移住してきた一族の3代目で、1932年11月24日に生まれたとされる。(なお、この誕生日は推定で、これについて吉田さんは熱く語っている(笑))。ユダヤ学校を出た後、父親のビジネスを手伝っていたが、父親も亡くなり、弟とビジネスをすすめるも、ユダヤ教から破門されるという事件が起きる(原因は不明)。しかし、ユダヤ教からの破門を解こうという努力もしなかったので、ユダヤ社会からは珍獣扱いを受けたという。そういうわけでスピノザは有名人でたくさんの人が訪ねてきたし、友人も多かったらしい。あまりに人が多く来るので、ラテン語学校に数年通った後、アムステルダムから郊外のレイデン、フォービュルフ、さらにハーグに引っ越して、レンズ磨きの仕事をしながら著作に励むことになる。そして、7年後の1677年2月21日に44歳で亡くなっている。

スピノザに関するさまざまなトリビアについては本書を読んでもらうとして、スピノザがどんなことを主張したのか見ていこう。スピノザの『エチカ』にはこんな事が書かれているらしい。

哲学ではよく存在するものを実体と属性に分けるということが行われる。例えば猫という存在は、猫という実体と個々の猫のもつ属性(色や模様など)に分かれると考える。けれど、スピノザはこの発想を個々の存在ではなくて、世界全体に広げるのだ。つまり世界全体について実体と属性について考えるのだ。この実体をスピノザは神と呼ぶ。また世界にある個々の存在は様々な属性を取るせいか、これを様態(モード)と呼ぶらしい。なので、世界というのは、神という実体が無限の様態で表現されているもの、というふうに考えるらしいのである。(汎神論と言われるゆえん)。

この表現というのは、好き勝手に表現されているのではなく、物理法則などのようにある因果関係を持っているのだという。そういう意味では、好き勝手をする「自由意志」というものは存在しないという。これは、わしらが物理法則を乗り越えられないのと同じである。スピノザは自由意思を否定するのだ。

しかし物理法則は変えられないが、その法則を利用して、わしらはいろいろなことができるだろう。そういう意味で、因果関係の法則内での「自由」は存在している。なので、その因果関係の法則を理解すれば、その範囲内では、わしらは「自由」を表現できるし、表現しなくてはいけないのである。なぜなら、わしらはそういう存在なのだから。

さらに人間の行動の因果関係を突き詰めると、その中心にあるのは感情なのだという。人間は感情で動かされるのだ。そしてこの感情の根源にあるのは、コナートゥスという特別な感情なんだそうだ。これは「できる限り、自らのことに固執する」という感情で、この感情が元になってその他のすべての感情が生まれていくのだという。以下、『エチカ』では、個々の感情がどのように発生するか、どうコントロールするかが延々と解説されるらしい。

そしてこのような感情をきちんと理解できれば、人は理性的に行動できるだろう。それはとても難しいことだが、と『エチカ』は結ばれるそうだ。そういうわけで『エチカ』は一般的には倫理学の本ということになるらしい。

実はわしがいちばん喜んだのは、精神と身体の関係を示す「心身並行論」の部分。

デカルトだと精神が肉体に対して優先していて、精神が肉体に対してこうしろああしろと命令しているようなイメージになるけど、スピノザは異なる。精神と身体は属性が異なるから因果関係はありえない。だから精神が身体を動かすこともなければ、身体が精神を動かすこともないのだとか。だとすれば、実際どうなっているのか。

スピノザによれば、これは因果関係ではなくて、並行関係なのだそうです。精神は精神で因果関係を持っており、身体は身体で因果関係を持っており、それぞれ実体からそれぞれの因果関係を通じて表現されただけ、という発想です。こういう発想は最近の心理学等の知見とも一致しているという。(意識の前に身体が反応していることを発見したリベットとか)

この考え方は、わしの発想に近い。

そしてこういうのが精神のあり方だとすると、精神で考えられることは、幻想だろうがなんだろうが、それだけで実在しているって、スピノザは考えているのだろう。わしは精神の幻想性を高く評価するものなので、これはなかなかよろしいです。

気に入ったから、スピノザの他の本を読んでみようかしら。吉田さんの説明って、平易に説明しようとしているようだけど、なんかかえって分かりにくくなっているような気がするんだよね。

*** メモ:デカルトとの関係 ***
スピノザの発想はデカルトとまったく合わないんだけど、人が考えることで自分の存在を認識するということでは、一致しているらしい。ただし、スピノザの場合、自分の思考の中で出会うのは、神という実体らしいけど。実体(=神)の定義は、「自分自身の中にあって、自分自身を通して考えられるもの」。どうやら瞑想とかそういうもので神に接することができる、ということかな? 

*** メモ:ホッブズとの関係 ***
ホッブズは自然状態では万人が万人と争うと考えるが、スピノザはそのような自然状態自体があり得ないと考える。社会というものが最初から人間の精神の因果関係に組み込まれているから、だそうです。スピノザは社会脳仮説を取っているんだね。

*** メモ:運命論(決定論)との関係 ***
因果関係があり、その因果関係を通じて表現がなされるのなら、その因果関係で未来も決定しているのだろうか。著者の吉田さんによれば、スピノザが因果関係について語っているのは過去についてだけで、それを未来に対して考えていないという。未来に何が起きるのかは、神ですら起こってみないとわからないのだそうだ。複雑系の走りかしら?

こうしてみると、スピノザが現代で評価が高くなっているのが、分かるような気がする。

★★★★☆

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