フランツ・モア 構成:イーディス・シェイファー 訳・中村菊子 音楽之友社 1994.10.10
読書日:2025.5.30
ホロヴィッツやルービンシュタインなどのピアノの調律をしたスタインウェイ社のフランツ・モアの回想録。
「7本指のピアニスト」の西川悟平さんが愛読していた本だそうで、気になったから読んでみた。そうしたら、やっぱり面白かった。理由はわからないけど、ピアノ関係の本って面白いね。
本の中身は、有名なピアニストと接した体験と、本職のスタインウェイのピアノとその調律についての話と、ドイツ人だった著者がアメリカにやって来るまでの経緯を書いた部分に分かれる。
しかしですねえ、ピアノと一緒に語られるものの多くは、信仰のことなのですね。ドイツ人なのでプロテスタント系のバプテスト教会らしいです。フランツは非常に信仰があつくて、しかも説教がうまいのでどこに行っても教会で説教を頼まれるような人だったらしい。
しかし、こんなふうに信仰があつくなる前に一度信仰を捨てたときがあった。それは、第二次世界大戦中、ドイツで空襲にあったときで、空襲で弟を亡くしてたくさんの死体を見たフランツは、神なんかいるはずがない、と確信して、信仰することをやめたのだ。
でも、イギリス人の牧師から親切にされたりして、あるときに聖書を読むと、非常に心が癒やされて、それから毎日読むようになって、徐々に信仰心を取り戻した。やがて、悲惨な戦争をしたのは人間なのであって、神のせいではないと確信して、キリスト教に回帰するのである。
アメリカに渡るときも教会の助けを借りたりして、なかなかこのコネクションを有効利用している。もちろん、各ピアニストの巨匠たちの宗教観にも敏感に反応している。有名ピアニストにはユダヤ人が多いので、ユダヤ教との兼ね合いがある。
ユダヤ人のルービンシュタインが雑誌に「わたしはイエスを信じることにした」と書いてあったので、著者のフランスは興奮して、ルービンシュタインにそのことをきいた。すると、ルービンシュタインは、その記事を否定して、「イエスは最も偉大なユダヤ人だが、彼が神の子だって? とんでもない」と答えたそうだ。この考えは、わしも同じだなあ。イエスは偉人だと思うけど、やっぱり神の子だとは思えないからね(笑)。イエスよりもパウロのほうが偉いような気もするし。
面白いのはホロヴィッツのソ連公演に同行した時、カバンの中にたくさんのロシア語バージョンの聖書を入れて持ち込んだ話だ。ソ連は共産主義で宗教を否定しているから、聖書は禁書なのである。見つかったら没収だったが、幸運にも入国審査も通過して持ち込むことに成功した。そしてこれはという人に聖書をあげていたが、結局全部あげることに成功する。最後には通訳をしていた女性(実際には監視役を兼ねている)が、もしも聖書を持っていたら一冊ほしい、と言ったので、自分のメモだらけの聖書をあげたそうだ(たぶん英語版)。
調律に関しては、Aの音が440サイクルか441サイクルでもめるという話が面白かった。世界中でどのAの音のサイクルがいくつなのかについては決まっていないのだそうだ。そのオーケストラごとに慣習がある。この慣習には、有名な指揮者も逆らうのが難しいらしい。違う音にすると、コンサートマスターが「演奏できません」と拒否するという。そういうわけで、オーケストラが変わるたびに、調律師は音を変えなければいけないのだ。コンサートごとに調律をしなければいけないわけで、調律師はかならずピアニストに付いていくということになる。(各サイクルの音叉も持っていく)。
当然ながら、スタインウェイは一台一台個性的なピアノで、フランツはスタインウェイが最高だと信じており、大量生産のヤマハのピアノとは違うと主張している。フランツの息子もスタインウェイ社で働いているそうだ。
ところで、この本の翻訳の文章がとても端正でびっくりした。中村菊子さんはジュリアード音楽院を1963年に卒業したひとで、ピアノの教則本などを多数翻訳している人らしい。この時代にアメリカに留学するような人は、何でもできる優秀な人ということなんでしょうね。
★★★★☆