西川悟平 朝日新聞出版社 2015.4.30
読書日:2025.5.23
15歳になってピアニストを目指した著者は、3年後、猛練習の末に無理と言われていた音楽大学に合格。和菓子屋で働きながら25歳のときに故デイヴィッド・ブラッドショーとコズモ・ブオーノのコンサートの前座を務めることになり意気投合、両氏に認められ、ニューヨークに招待され、リンカーンセンターでリサイタルを行う。その後、ジストニアにかかり演奏ができなくなるが、必死のリハビリにより、右手5本と左手2本の機能が回復してピアニストとして復活するまでの話を書いた本。
なんというか、久々に感動したな。この人の人生に向き合う姿勢の素直さに。
育った家庭は音楽にあふれていたそうだが、特に音楽の教育を受けていなかったそうだ。音楽を始めたのは中学校のブラスバンド部で、理由は新入生歓迎イベントで好きだった映画『幻魔大戦』のテーマ(ローズマリー・バトラーの『光の天使』)を演奏してくれたからだというから、かなり偶然。その時は楽譜すらも読めなかったという。
ブラスバンドでは担当はチューバだったんだけど、ここでいきなり将来の片鱗を見せる。それは演奏のうまさではなくて、しつこさ(笑)。月に1回練習を見てくれたプロの竹内博昭先生に、プロやセミプロの管弦楽奏者のための合宿にただ一人の中学生として誘われたのだが、その理由は別にうまかったからではなくて、一番質問が多かったからだという(笑)。
これですよ、これ。この後、いろんな奇跡が起きるんだけど、この異常なまでの熱心さというか、目的のために自分の周りにあるすべてのものを利用し尽くそうという姿勢が次々に奇跡を起こしていくんです。なんというか、あまりに熱心なので周りが自然と手助けをしたくなる、ということなんでしょう。
合宿でも質問魔ぶりを発揮したらしく、プロの音楽家になる心構えや効率的な練習の仕方を教わったりして、すっかり音楽大学に行くことを決意する。
ところが音楽学校の試験にピアノがあることがわかる。どの科目で受ける場合でも、ピアノがある程度、弾けなければいけないのでした(なぜ?)。それを口実に、当時好きだった顧問の先生にピアノを教えてもらうことにする。その結果、ピアノへの愛が爆誕し、ピアノで音楽学校に入るという、ほとんど自己破滅的な決心をする。
ピアノとバイオリンはとても競争率が高い楽器なので、とても不利なのだ。しかし、以前からピアノに感動する質で、ピアニストになりたいという夢を追求することにしたのだ。どのくらい好きかというと、ショパンの『英雄ポロネーズ』を毎日聴いていて、熱が出てもこの曲を聴くと熱が下がったというくらい。このとき15歳。目標は、いつか『英雄ポロネーズ』を弾けるようになりたいという、なんとも控えめな希望。
この後、寝る間を惜しんでの練習が始まる。家には祖母のピアノがあったんだけど、家は別に防音設計になっていない。そこで、ピアノを布団でぐるぐる巻にして、夜も弾けるようにしたという。(たぶん、それでも音は外に出ていたはずだが、どこからも苦情が来なかったそうだ)。
通っていた男子校の高校では音楽の授業がなかったのに、音楽大学を目指していると知った先生が会議室にどこからかピアノを運び入れてくれて、いつでも練習ができるようにしてくれたという。周囲を巻き込む力がすごすぎる。
1日5時間から12時間の猛練習で、ほかの人が学んだであろう15年分の教則本を全部マスターし、目標だったショパンの『英雄ポロネーズ』も弾けるようになる。度胸をつけるためにコンクールをあちこち受けて、17歳のときに、オーケストラをバックにするピアノコンチェルトのコンクールに優勝してしまう。そこで中学生の合宿のときに会ったプロの音楽家たちと再会して、彼らを驚かすことになる。なにしろ数年前、チューバを演奏していた少年が、今度はピアニストとして登場したのだから。
驚くのは、こんな忙しい毎日を過ごしているのにも関わらず、非常に友達が多く、男子校の友達のためにピアノ教室のツテで女の子との合コンをセッティングしたり、バンドに担ぎだされて、ヘアスタイルをとんがり頭にしてX JAPANのキーボードを弾いているなど、普通に高校生活を楽しんでいることだ。本人はそれほどでもないのかもしれないけど、なんともパワフル。
こうして無事に音楽大学に合格する。ただし、短期大学の方。これは短期大学の課題曲が彼にとって簡単だったから。短大から4年制への編入は可能だったので、合格しやすい方を優先したのだ。これにより見事、音大に合格する。
しかし、このあとの4年制への編入試験に2年続けて不合格になってしまう。これはあとから考えると、良かったようだ。なぜなら音大では正確にピアノを弾くことが優先され、音大は自分の声を持たない無個性で退屈なピアニストを排出していたからだ。(たぶん落ちたのも、音大の考え方と合わない演奏をしていたから)。
短大を卒業すると、遊んでいるわけにもいかずに、和菓子屋で店員として働きながら(もちろんコミュニケーション能力が高いので、和菓子屋では人気があって評価が高かった)、コンサートなんかをしていたんだけど、世界的なピアニストのデイヴィッド・ブラッドショーとコズモ・ブオーノのコンサートの前座に抜擢される。
このチャンスを西川が無駄にするわけがなく、両巨匠に訊きたいことをとにかく質問しまくって、すっかり意気投合してしまうのである。それで気にられた西川は、日本にいる間、荷物運びみたいなことをして、ずっと一緒に彼らと過ごしてしまう。巨匠二人の西川悟平の演奏の感想は、「テクニックはともかく、伝えたいことは分かる」というもので、テクニックさえ身に付ければよいピアニストになれる、というものだった。それでニューヨークに来い、生活の面倒も見てあげるから、という破格の内容で誘うのである。
もう人たらしの極致と言っていいでしょう。
もっとも本人はビビってしまって、何か月間もなんのメールも出さずにいたけど、おそるおそるメールを送ったら、早く来なさい、と言われて行くことにする。職場からは、うまくいかなかったらまた雇ってあげるとまで言われて、送り出してくれた。
ニュージャージー州のコズモ・ブオーノの豪邸に住んで、ニューヨークでブラッドショーに練習をつけてもらい、歌うようなタッチの訓練をする。そしてなんと2ヶ月後にリンカーンセンターでリサイタルを開いて、成功してしまうのである。
その後もコンサートとかしながらプロとして活動を始めるのですが、ここで指が動かなく病気になる。ピアノを弾こうとすると、指が強い力で内側に曲がってしまうようになってしまったのだ。最初は左手の指に、次は右手に、ついにはすべての指で演奏不可能になってしまう。
病名はジストニア。筋肉の制御が効かなくなる原因不明の病気だ。でもたぶん、彼の場合は練習のし過ぎなんじゃないかと思う。あまりに練習しすぎて、脳が過剰適応しすぎて、指の運用についてバグっている状態なんじゃないか。なにしろピアノ以外では指は普通に動くのだから。
ともかく、演奏できなくなり、自殺未遂にまで陥る。このときの記憶は曖昧らしい。さらに師匠のブラッドショー先生も亡くなってしまう。
ピアノで生活ができなくなりいろんな仕事をして、食いつなぐ生活が続く。面白いのはこんなときにも、貧乏生活をネタにしてスピーチコンテストで優勝したりしていることだ。それにジュリアード音楽院のオクサナ・ヤブロンスカヤの公演をプロデュースしたり、リンカーンセンターで公演したオペラに、本物のオペラ歌手を差し置いてオーディションに合格して、オペラ歌手デビューしたりしている。なんか、やることがすごすぎる。
これらはすべて技術以前のところで認められて、限界突破しているわけで、本当に人間的な魅力というほかはない。
リハビリと言っても、原因不明でこの病気に対する治療法はないわけだから、自己流である。ピアノの音を通常の50分の1という速度でゆっくりと一音一音弾く練習をしたりしていたが、やがて、正式な指使いができなくてもいいや、と開き直って、右手3本、左手2本の指で、指の運用を工夫しながら弾くようになる。幼稚園の子供に『きらきら星』を弾くと、子供たちが喜んで飛び跳ねたので、これでいいのだと意を強くする。
さらに、リハビリの結果、右手5本、左手2本が動くようになり、本の題名の通り、7本指のピアニストとして復活するわけです。復活コンサートでは、病気のことを客に告げずにコンサートをして、スタンディングオーべーションを受けます。
この復活にいたるまでにも、復活のリサイタルにピアノのスタインウェイ社の普通なら無理なホールを押さえたり、いろいろ人たらしを行っているわけですが、まあ、このへんはもう繰り返し言わなくても十分でしょう。この人の場合、何をするにしてもずっとこんな調子なのです。
この後、世界中で演奏をするのですが、なぜか、どこのコンサートでも観客から、西川の後ろに金髪の巻き毛の青年が立っていると言われるのです。その話を聞いたコズモ・ブオーノが見せてくれたのは、ブラッドショーの子供の頃の写真。ブラッドショーはきれいな金髪の巻き毛で、巻き毛のコンクールで優勝したこともあるんだとか。死んでもなお、ブラッドショーは西川悟平のことを心配してくれているようです。
この本では語られていませんが、西川悟平に関する有名な話に、ニューヨークで強盗に入られた話があります。強盗に入られたのに、強盗とすっかり友達になってしまい、真面目に働くように諭し、リンカーンホールでリサイタルができるようになったら招待すると約束をして、メールアドレスを交換します。その後、リンカーンホールでリサイタルの話が決まったとき、その時の強盗から連絡が来て、本当にビップルームに招待したんだとか。強盗はあれから真面目に掃除夫として働いて、車も買ったんだとか。
じつはわしもこちらの話を先に知って、この本を読もうと思ったのでした。この話については例えば以下のところにラジオで本人が語った音声が残っていますので、よろしかったらどうぞ。
西川は東京パラリンピックの閉会式で演奏しましたが、(本人が出たい出たいといい続けていたのが伝わって、出演にいたったそうで、ここでも夢を実現させる力が強すぎることがわかる)、この演奏を強盗が見ていて連絡をくれたそうです(笑)。
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