「ほんとうの会議」は、言いっぱなし、聞きっぱなし、討論なし、結論なしのネガティブ・ケイパビリティを発揮するミーティングについての本だった。
しかし、これがほんとうの会議だ、明日から会社の会議もこういうふうにしましょう、と言われても誰もが困ってしまうだろう。何も決まらない会議では業務が滞ってしまう。
しかしこの本を読んでいるうちに、似たような会議の進め方があったのを思い出したのである。結論は出る、ただしダラダラと続く、そんな会議である。
民俗学者の宮本常一が書いた「忘れられた日本人」という本に、かつて日本の農村でどんなふうに意思決定がされたかの様子が記されている。かつてと言っても、宮本常一が実際に体験したことだから、高度成長期前の日本の農村の話である。そんなに昔のことではなく、数世代前までの日本のやり方なのである。
宮本がある村でなにかの資料を借りたいと申し出た。すると、それは前例のないことだから、村の寄り合いで決める、ということになった。ところがいつまで経っても結論が出ないのである。そこで宮本が寄り合いに出てみると、彼らはこんなふうに議論を進めていたのである。
まず寄り合いには複数のテーマが持ち込まれている。彼らはそれをひとつひとつ議論するのではなく、同時並行的に議論していく。あるテーマについて話していると、いつの間にか別のテーマに議論が移っていく。まるで思いつきのようにころころと議論のテーマが移っていく。
宮本の資料のテーマについていうと、誰かが、こんな事があった、と昔あった前例を思い出して話す。しかしそれで話は終わって、別のテーマに話は移っていく。しばらくすると、また別の誰かが、そう言えばこんな事もあった、というふうにテーマが戻ってくる。こういうふうに、ダラダラとそのテーマに関係する話が、思いつきのように話される。こんなふうにして、長い時間をかけてそのテーマに関連する情報が皆に共有されていく。そういうふうに話して行くうちに、なにか合意のようなものが皆の中で形成されていく。
このダラダラ続く寄り合いの間、途中で人が抜けたり、別の人が入ったりすることもあったんだそうだ。
この寄り合いに仕切り役がいたのかどうか知らないが、たぶん最低限のことしかしていないのではないか。少なくとも、「それは関係ありません」などと言って、発言を遮ることはないだろう。
宮本への資料の貸し出しは結局、問題なかろう、ということになって貸し出しが決まったが、多数決をするわけでもなく、すべての意見や情報が出揃い、全員が納得して合意ができるまで、ゆっくりと議論をするのである。合意が形成されるまでは結論は出ないから、中途半端な状態にずっと置かれる。
これは、ネガティブ・ケイパビリティが高い会議と言えるのではないだろうか。
そうすると、「ほんとうの会議」の良い見本は、意外と昔の日本にあるのかもしれないなあ、とふとそんなことを考えたのでした。