帚木蓬生(ははきぎほうせい) 講談社 2025.4.1
読書日:2025.5.3
ギャンブル依存症には効果的な薬がなく、自助グループによるミーティングだけが唯一効果がある方法で、そのミーティングでは言いっぱなし、聞きっぱなしで、結論も要約もなしであり、この会議ではネガティブ・ケイパビリティ(答えが出ない事態に耐える力)が発揮されているとし、社会の普通の会議でも実践すべきだと主張する本。
ギャンブルにはまってしまった人の脳はギャンブル脳になってしまい、ギャンブルのためにはその場しのぎの嘘もつくし、犯罪すらも犯してしまう。このギャンブル脳をもとに戻すことは不可能で、一生抱えていかざるを得ない。その他の精神疾患では薬の処方もあり得るが、ギャンブル依存症には効果的な治療薬もない。唯一効果があるのは自助グループのミーティングなのだという。
そのミーティングでは参加者はただただ他の人の話を聞き、自分も話をするだけで、文字通り言いっぱなし、聞きっぱなしであり、討論は行わず、なんの結論も出ない会議である。しかし、これがいいのである。なぜならば、ギャンブル脳の人は、そもそも誰の話も聞かないし、自分のことも正直に話さない状態である。だから、まずは人の話を聞き、自分のことを話すという当たり前のことから回復させるのである。そうしてミーティングに出ているうちに自分が無力だと認め、ひとりでは絶対に回復できないということを知るのだという。
ミーティングは結論を出すのが目的ではないので、とうぜん結論は出ないのであるが、そもそも人が生きるというのは完全な結論が出ない状況というのは普通である。結論が出ない世界を生きるにはそのような事態に耐える力が必要で、それがネガティブ・ケイパビリティなのだという。英国の詩人ジョン・キーツが最初に使った言葉だそうで、これを英国の精神科医ウィルフレッド・R・ビオンが精神療法に置いて治療者が保持しなければいけない能力なのだとした。
このようなミーティングによる治療法は、フィンランドで始まったオープン・ダイアローグという手法に近いんだそうだ。このオープン・ダイアローグも、関係者が集まって、話をすることで(結果的に)治療していくという方法である。
ここまではとても良くわかる。しかし、わからなくなるのは、このような会議を普通の会議でも取り入れなければいけない、と帚木さんが主張することである。
もしあらゆる会議で取り入られれば、人は成長し、人生も豊かになり、社会が変わっていくという。そして、そのような会議ができなくなり、悪の会議を行った結果が、宝塚歌劇団の虐待事件であり、ビッグモーター事件であり、ダイハツの不正問題などであるという。誰かが「これは普通ではない」と発言し、それが共有されれば問題は起こらなかったというのである。
まあ、そういうふうにも言えるのかもしれないけど、これらは会議以前の問題のような気がするんだけどなあ。会議が原因というのは言いすぎじゃないかしら。ましてや、いつもわしらがやっている通常の会議、つまりなにか問題が起きて、関係者が集まって、なにか方針を出すという会議もだめだ(と言っているように見える)というのはどうなんだろう。これらの会議は、当面の行動を決めるための会議で、これをしなかったら何をしたらいいかわからないじゃない。そもそも日常の会議で、どうやってネガティブ・ケイパビリティを取り入れればいいのか、さっぱりわからない。
いい会議の例として、久野塾の会議の例が取り上げられているけど、これはもともと人を成長させるのが目的の会議だから、日常の会議とはやっぱり違うんじゃないの?
最後の章にマルグリット・デュラスの話が出てくるんだけど、ほぼこじつけみたいな感じ。もともと先程出てきた精神科医のビオンがネガティブ・ケイパビリティに関連して、モーリス・ブランシュという人の「答えは質問の不幸である」という言葉も引用しているそうで、このモーリス・ブランシュという人がマルグリット・デュラスと深い関係があるということで出てきた話です。で、じつは箒木さんの卒業論文がマルグリット・デュラスだったそうで、思い入れがあるらしく彼女の話が詳しく話される、というわけです。本人的には大学時代との偶然の繋がりに感銘を受けたのかもしれませんが、なんだか帚木さんが語りたいから無理やり突っ込んだ感じです。
まあ、この本を読む人は第1、2章を読んで、後半の第3、4章はついでぐらいでいいでしょう。第1、2章は本当に読む価値があります。
この本は、講談社のウェブマガジン、クーリエ・ジャポンの「今月の本棚」というサービスで読みましたが、4月に出たばかりの本を翌月に読ませてくれるとは、購読料を払っているとはいえ、講談社はなかなか太っ腹だなあ、と思いました。
★★★★☆