渡辺努 日本経済新聞出版 2024.11.22
読書日:2025.4.12
1990年代にデフレはなぜ起こり、2022年にインフレはなぜ起こったのか、異次元金融緩和はなぜ失敗したのか、について考察した本。
渡辺さんによれば、日本で起きたこれだけ強固なデフレは他の国とは違いすぎて、普通の経済学では説明不可能なんだそうだ。経済の世界では日本とアルゼンチンは異端の国だそうで、どちらも普通の経済学では説明できない現象が起きるのだという。
インフレは賃金の上昇と企業がつける商品価格がお互いにスパイラルに効いて起こる。つまり、労働者はインフレ分を賃金に上乗せしようとし、企業はそれを商品価格に転嫁する。こうしたことが交互に起こるので、自然にインフレという世界が出現する(=自然利子率がプラス)。
しかし、日本では価格に転嫁するということ自体が悪と考えられていて、2016年にアイスキャンディの「ガリガリ君」が20数年ぶりに値上げしたとき、会社側が謝罪をしたことが話題となった。日本でも話題になったが、それ以上に海外のメディアが驚いて、このニュースはニューヨーク・タイムズでも大きく取り上げられたそうだ。
それだけではなく、商品の数を減らしたりや小さくしたりして実質値上げをするステルス値上げという現象が話題になったが、このようなことは日本でしか起きないんだそうだ。外国では単純に値上げをするだけだからである。小さくするにも生産工程を変える必要がありコストがかかる。にもかかわらず、日本ではコストをかけてでも値上げを回避しようとする。
かように値上げを避けようとするというのは、値上げすると本当に消費者の反発を食らい、売上が減少するからである。スーパーで他店より高い物があると、実際に売上が落ちる。客は他の店に行ってしまうのである。なぜなら客は他の店では安く売っていると確信しているから。逆に外国では値上げしてもその店で買うのだという。なぜなら客は他の店でも値上げしていると確信しているから、だそうで、消費者のメンタルの違いは明らかだそうです。
このように値上げが悪という世界では、インフレは起きないことが前提なので、労働者も賃上げを要求しない。したがってインフレではなく、デフレのスパイラルに陥る。
著者によれば、デフレが社会のノルム(規範、社会のルール)になってしまい、いったんノルムというレベルになると、日本ではそれを変えるのは容易なことではなくなるのだそうだ。
問題はなぜこのようなノルムが生まれたかなのである。なにしろ、1990年代以前では日本は普通にインフレが存在していたからだ。(なお、ノルムという言葉を最初に使ったのは渡辺さん本人であり、海外の研究者に説明するための方便だったそうだ)。
しかしいくら調べても、なぜ起こったのかは経済データからは分からないのだそうだ。著者の推定では1990年代の中国の台頭に原因があるのだという。つまり、1995年に経団連が賃金を据え置かないと中国に勝てないと主張し、労働側がそれに答えて賃上げ要求を行わなかった。それが1年だけではなく、数年に渡って続いたことでノルム化したのではないか、と推定している。
日本ではいったんノルム化するとなかなか消えないというのは、パンデミックのときの自主規制と似ているという。市民がお互いに監視して、自粛警察が自然発生した。おなじように、値上げに関しても消費者が厳しく取り締まったので、なかなか消えなかったという説明である。
さて、日銀はデフレを収束させるために、2013年から異次元の金融緩和を行った。その試みは事実上失敗したが、その理由は以下の通りだという。
まず通貨供給量を10倍以上に増やしたが、それは効果がなかった。それは貨幣の需要供給曲線が非線形で供給をいくら増やしても金利は0以下にならなかったからだという。(普通はこのことは「流動性の罠」ということばで説明すると思うが、渡辺さんはその言葉をなぜか使っていない。学術的とは言えないからかしら?)。デフレ経済では金利が0%でも実質の金利は高いので需要は喚起されなかった。
次の対策としてマイナス金利を試みたが、それも失敗した。それは日銀の口座(リザーブというらしい)の金利をマイナスにしただけで、実際のマネーの金利のほうはマイナスにしなかったからだという。
マネーの金利ってなに? と思ったら、それは時間とともに増えたり(金利がプラス)減ったり(金利がマイナス)するようなマネーなのだった。こんなことが可能なのか、と思ったが、デジタル貨幣なら可能だという。まあ、そりゃそうだけど、現実には日本の貨幣はデジタル貨幣ではないからなあ。というわけで、マイナス金利は価値の減らない現金によるタンス預金が増える結果になっただけで失敗したそうだ。
(価値が減るマネーについては、スタンプを使った「ゲゼルの自由貨幣」が紹介されている。参考本としては「エンデの遺言」という本がわかりやすいかな。ちなみに、デジタル貨幣だとインフレも怖くありません。インフレに応じてすべてのお金を自動的に増やせばいいだけだから。ハイパーインフレも問題なしです(笑)。このことは、渡辺さんの別の著書「物価とか何か」に記載されています)。
お金を増やしても金利が十分下がらなかったので需要は喚起されなかったけど、仮に金利が十分下がってもインフレにはならなかっただろうという。それは日本では価格硬直性がアメリカなどに比べて高いからだそうです。ノルムが強すぎるということですかね。この現象に対応するには、政府が労働者の賃金を強制的に一律に上げるような政策が有効なのではないか、と提案されてます。(実際にアメリカのニューディール政策で実施されたのだそう)。
なお、日銀は膨大な流動性を日本にもたらしたが、その流動性は回収しなくてもいいそうです。金利がプラスの世界ではゼロ%の場合とは違って日銀は自由にマネーの需要をコントロールできるからだそうです。そもそも「市場(国債)の金利」と「マネー(銀行)の金利」と「マネーの供給量」の間にはトリレンマがあり、市場金利とマネーの金利をコントロールすると、供給量はコントロールできないんだそうだ。
では、2022年のインフレの発端はなんだったのだろうか。発端としては、パンデミック後の世界的なインフレに日本も巻き込まれたことだそうだ。さらに円安も加わり、その結果、消費者のインフレ予想が変わるとともにインフレ耐性ができ、企業も値上げが可能になり、それが賃上げに繋がり、日銀もマイナス金利を脱することができたという。
今回のインフレに持続性があるのは、ひとつは「安い日本」という認識が広がって、日本全体でそれを是正しようという機運が盛り上がっているということがあると言う。デフレが始まったころは「高すぎる日本」の状態で、高すぎる日本を是正するためにデフレが継続した。しかし、今回はその反対なので、インフレが持続しやすいという。
また、これまでは女性と高齢者という労働力のバッファがあったけれど、ついにそのバッファも限界に達して(「ルイスの転換点」に達して)、本格的な人手不足になり、賃金が上昇しやすくなっていることも持続性を高めているという。
以上が渡辺さんの主張で、とりあえずは、デフレからインフレにいたる時代を、それなりにうまく説明できているようにも見えます。わしは経済学はエセ科学と考えていて(たぶん理論化の前提自体が間違っている)、なにか現象がおこると、そのたびに純粋な理論だけでは説明できず、別のものを持ってきて説明せざるを得ないような学問だと思っております。そういう意味ではそのとおりの説明展開になっており、まあこんなものでしょうか。とりあえず納得感はあります。いちおう未来への教訓にもなりそうな内容にも見えます。
すこし不満があるとすれば、過去の歴史的なデフレとどこが違うのかという歴史的な視点の説明がほしいところだなあ。19世紀のイギリスにほとんどインフレがなかった時代があったと思うのだけれど(デフレではなかったのかな?)、その時代との比較なんかを読んでみたい気がする。そろそろ歴史経済学者の出番かしら? なにしろデフレはすでに過去のものになったようだから。
★★★★☆