加藤晴久 講談社 2015.10.1
読書日:2025.3.26
ブルデューなんて名前すら知らなかったが、とても有名な人らしい。なので、どんな仕事をした人なのかまずは知りたいところだけど、この本は不思議な構成をしていて、ブルデューの仕事自体は最後の方の第5章で簡単に語られるのみで、それまではひたすらブルデューの生い立ちとその周囲の人間関係の話に終始するのである。
具体的には、ブルデューはフランスの田舎に生まれたのだが、非常に優秀な人で、エリート養成のための学校であるエコル・ノルマル・スュペリユール(高等師範学校)に入学する。ここの卒業生たちはフランスの知識人階級を構成しており、例えばサルトルやフーコーなどがいる。ブルデューのライバルといわれるジャック・デリダもここの出身である。
こうした知識人同士の競争は非常にし烈らしく、この業界(?)で生き残っていくのは大変らしい。お互いに非難の応酬みたいなところがあり、ブルデューの5ページの内容にデリダが100ページ以上で反論したという話が書かれてあったりする。なんと20倍返しである。
こうしたライバルたちは出身が上流階級であることがほとんどだから、田舎の郵便職員の息子だったブルデューはエリート校に入ることで地元社会とは切り離されたうえに、エリートたちの中でもそのなかにしっかり入れないという、2重に屈折した存在である。そんなわけで、ブルデューは自分の立ち位置をしっかりさせるために、自分の学閥を形成して、学閥のボスとして学閥を盛り上げようとする。まあ、独立した中小企業の親父みたいなんだけど、このため恩師(やっぱりエコル・ノルマルの出身)から、カルトの教祖になった、と非難されたりする。
とまあ、こんな知識人の関係や、お互いのやりとりがとてもたくさん語られるわけ。
こんなのを読んでいると、ブルデューのことではなくて、フランス知識人社会の生態系を読まされているような気になる。なぜこんなことが延々と書かれてあるのか?
どうも著者の加藤さん自身がエコル・ノルマルの出身だかららしい。当然ながら、そのことを誇りに思っているから、その卒業生の有名人のやり取りは彼にとって非常な関心事であり、こまかくチェックしているのであろう。だからこういう話題には事欠かない。もう一つは、加藤さんは専門が文学で社会学でないので、そのへんの学問的な議論はあまりしたくないのだろう。
まあ、日本人でエコル・ノルマルに行った人はほとんどいないだろうから、彼自身がフランスのエリート校での少数派で、ブルデューと同じように2重に屈折した存在なので、ブルデューに親近感がわくのかもしれない。
こうしたブルデューの生い立ちや、その後の知識人業界の中での彼の奮闘のたくさんの記述も、無駄というわけではないようだ。なぜなら、彼の業績は彼の生まれと育ちや人生に深くリンクしているようだからである。
ブルデュー社会学の根底は、人は心のなかに社会的な構造物を構築する、ということらしい。この心理的な構造物をハビトゥスという。
人は生まれると周囲から影響を受けて、社会的、文化的な構造を心のなかに構築する。ハビトゥスの中には他者との関係、慣習、しきたり、価値、通念などがある。レヴィ=ストロースなどの通常の構造主義で言われる構造との違いは、通常の構造主義は社会的なものですでに存在していて静的であるが、いっぽうハビトゥスは各自が心のなかに作るもので動的である、というものらしい。
こうしたハビトゥスは周囲の状況に合わせて、どんどん更新されていく。しかし、一番最初に構築されたハビトゥスは非常に強力で、それは身体に染み込んでおり、つまり身体化しており、無意識的にそれに従うような状況なので、更新は困難なのだという。身体化したような、無条件に従うようなハビトゥスをドクサという。
というわけで、ハビトゥスは、田舎出身でエリート校に入ってしまい、自分が彼らと違うということを身をもって味わったブルデューが、自分を振り返って考え出したものらしいのである。
さらに話は続く。
ひとは、同じ価値観、同じルールに合意した人々でグループを作るという。これを「界」と呼ぶ。この合意した価値観とルールに従って、人々はグループ内で激しく競争をするという。もちろん、こうした価値観やルールはハビトゥスとなって、人の心の中に構築されているものである。
これも、知識人という狭いグループの中で奮闘したブルデューの姿を思い浮かべるではないか。
こうした界が集まって社会全体を作る。社会の中には少数のエリートがその他大勢の人たちを率いている。数の上では劣勢の彼らがなぜ社会全体を動かすことができるのか。それは彼らが象徴資本を持っているからだというのだ。まあ、単純に言えば、権威である。
ハビトゥスは実際の物質ではなく心理的な象徴の世界である。したがって、象徴を通して働きかけることは非常に強力なのだ。こうして象徴による支配が可能になる。なぜ多数の下のものは少数の上のものに従うのかこれで説明可能なのだという。(そして象徴のうち、もっとも強力なのが神なので、ブルデュー社会学は神に帰結するのだそうだ)。
まあ、この辺は、「社会脳仮説」関係やら「ステータスゲーム」やら「サピエンス全史」やら、そんなものを読んでいればそんなに違和感はありませんが、そのはしりがブルデューだったってことかな?
ブルデューの代表作は「ディスタンクシオン」と「国家貴族」らしいから、読書候補にいちおう入れておくかな。
でもねえ、ブルデューの著作って難解なんですって。なぜ難解かというと、そうしないと知識人のなかで認められないからなんだって。フーコーが、フランスでは文章の10%は理解不能にしないといけない、と語ると、それを聞いたブルデューは、10%ではだめでせめて20%は理解不能でなければ、と語ったそうだ。やれやれである。
最後に、自由について。
ハビトゥスが身体化してドクサになっているのなら、われわれはそこから逃れることができないのだろうか。ブルデューはそうではないという。その無意識のドクサを意識することによって、ハビトゥスを修正することができるというのだ。意識することで脳の配線を変えれば、われわれは自由になれる。よかった。
★★★☆☆