バーバラ・ブッチャー 訳・福井久美子 河出書房新社 2024.8.20
読書日:2025.1.30
アルコール依存症だった著者が、運命に導かれるように法医学調査官(死体調査官)の仕事についてみると、それは天職だった。以後、5000体以上の死体を見るなど仕事に没頭し、今度はワーカホリックになってしまい、仕事でしか自分を定義できなくなる。レズビアンの恋人とはうまくいかず、うつ病になりかけるものの、ちょうど起きた9.11テロ事件に遭遇してその仕事に没頭して乗り越える。その後、出世するものの、権力闘争に巻き込まれて退職、自分でコンサルタント会社を起こすがそこが限界だった。ついにうつ病を発症し、治療の末に再起を果たすまでの回顧録。もちろん不可解な人間の死についてもたっぷり語る本。
以前、PTSDを発症したイギリス人の法医学者の手記を読んだことがあった。
法医学者と法医学調査官の違いはあるけれど、死体に関わる仕事に没頭した挙げ句に精神的に変調をきたすところが同じだ。どうやら人間の死には怪しげな魅力があるけれど、あまり近づきすぎるのも良くないらしい。
ちなみに法医学者は解剖して医学的な死因を確定させる人で、現場に出向くことはほとんどない。一方で、法医学調査官というのは現場に出向いて、亡くなった状況の証拠を集めて報告するのが仕事だ。医学的な知識が必要なのはもちろん、刑事や鑑識課のように亡くなるまでの状況を証拠から推測しなくてはいけない。それは事故なのか、自殺なのか、病死なのか、それとも殺人なのかを確定させる。つまり専門的な両方の知識が必要なので、はまると抜群に面白い仕事ということになるらしい。いちばん大切な基本的仕事のひとつは死亡時刻の推定だそうだ。
ここで現場に必ず出向くというのがミソで、美術品にあふれたNYの超金持ちの邸宅に行くこともあるし、落ちるところまで落ちた人が泊まる極貧者用のホテルや、NYの地下にある広大な地下世界へも行くこともある。著者はタルボットのスーツとローファーの靴で、相棒の運転手ミスター・ウェルズとどんなところへも行く。こうしてNYの表裏のあらゆるシーンを目にするわけだ。
タルボットのスーツは刑事たちに自分がプロだと思わせるための装いだそうで、刑事たちにバカにされないように、現場でのユーモアも忘れない。ばらばら死体を目の前にして、「ちょっと手を貸して。あ、やっぱりいいわ、ここに一本あるから」などとジョークを飛ばして刑事たちの笑いを取ったりする。彼女の名前がブッチャー(肉屋、解体屋)というのも、まるで冗談みたいな話で、刑事たちのばらばら死体の報告書には彼女の名前をわざわざもじった表現が使われることもある。
死者の死に方もいろいろで、もちろんサイコパスのシリアルキラーに殺される人もいるが、事故死と自然死がほとんどで、残りは殺人と自死ということになる。
事故死では、馬鹿げたことをして死ぬ人がたくさんいてびっくりする。性的な興奮のために袋を被って窒息死するのは結構いるらしいが、あきれるのは、NYの地下鉄で列車から列車に飛び移る地下鉄サーフィンをする人たちの話で、失敗すればもちろん身体はばらばらになる。人間って本当に何でもするなあ。
まあ、こんな興味深い話もたくさん語られるのだが、それはこの本の半分だ。もう半分は本人の人生で、アルコール依存症から立ち直って、普通を演じるようにアドバイスされた彼女が、どうやってこの仕事にたどり着いたのか。そして天職と思った仕事を感情にカーテンをおろして普通を演じているうちに、残業代でNY市のトップ3の収入を得るようなワーカホリックになって、本当に感情を失っていく様子が痛々しい。人生の癒しを求めて演劇に打ち込んだりするが、その劇場のあるビルで知り合いが殺され、仕事でいかなくてはいけなくなったりする。レズビアンだが、こんな感じでは恋人ともうまくいくはずもない。
そういう彼女は他殺の現場は平気だが、自殺の現場だけは苦手だったそうだ。アルコール依存症も緩慢な自殺だからだそうで、つまり彼女には自殺体質が潜んでいるのだ。自殺するひとは、怒りかあるいは悲しみで死ぬという。怒りで死ぬ人は、みんなが見ている前で、なぜ自分が死ぬのかを分からせるように騒々しく死ぬ。例えば飛び降り自殺などはそういうものだそうだ。いっぽう悲しみで自殺するひとは誰にも知られず、ひっそりと死ぬという。
9.11のテロ事件は、そういう精神的にちょっと行き詰まった彼女にとっては絶好の復活の機会になった。なにしろ、多くの人と一体感と使命を感じつつ仕事に没頭できたのだから。彼女の仕事は死体の身元を確定させて遺族に引き渡すこと。そしてそういったオペレーションをうまくまとめること。そういった経験はその後、世界各地で起きた大きな事故、災害といった仕事につながる。
やがて現場を離れて、NY法医学局を改革する仕事をするようになったが、結局、何の理由も言われないまま解雇されてしまう。その後会社を起こすが、自分のメンターとでもいうべき元上司が亡くなったあとは、ついに結界が崩れたようにうつ病になってしまう。でも、けっしてアルコールに逃げなかったのはまったく偉い。意志が強いのだ。
うつ病から回復するには二ヶ月の入院が必要だったそうだ。うつ病の原因は仕事だったのか、それとも解雇されて仕事ができなくなったことなのか、いまでもわからないそうだ。
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