ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ

戸谷洋志 講談社 2024.8.20
読書日:2024.12.16

新自由主義の「自己責任論」を全面的に採用することは論理的に問題があるだけでなく、有害でもあり、人は一人で生きていけない以上、他の人に頼る局面が必ずあり、人に頼ることを前提とする「弱い責任論」で補完することが必要と主張する本。

わしは80年代に青春を過ごしたものであり、したがって新自由主義の洗礼をまともに受けて育ったものである。わしは新自由主義は正しいと信じたし、サッチャーレーガンは正しいことを言っていると思った。当時、大学の研究室の飲み会で新自由主義にそった考えを述べると、当時の研究室の教授は、「最近の若者はそういうふうに考えるんだね。でもそれではうまくいかないよ」というようなことを言われた。今ではその言葉は正しかったと思う。

しかしながら、新自由主義のどこが間違っているのかというのを論理的に述べるのはなかなか難しいのである。なぜなら、新自由主義も一面の真実を述べているからだ。単純にいうと、新自由主義とは、「自分のことは自分でやれ」ということであり、個人の自立心に働きかける考え方だから、それはそれなりによろしいのである。

一方で、新自由主義の考え方を極端に推し進めると、なんでも、「それはあなたの自己責任です」という表現になり、そう言うとき、そのひとは自分と相手の関係を切り離している。自己責任論は責任を個人に閉じ込めるものだから、自己責任論を唱える人は、自分と自分以外の人間(社会)との関係を切り離していることになる。すべてを個人の責任にする自己責任論を、戸谷は「強い責任」と呼んでいる。しかし、もとより人は自分以外の人との関係を完全に切り離すことは不可能なのだから、自己責任論に限界があることは明白なのである。

第一に、その人はそうせざるを得ない状況にあったのかもしれない。選択肢のない中で、「それを選んだのはあなただから、自己責任です」と言われても困るだろう。たとえ自分の意志で選択したのだとしても、人は自分ではどうしようもないことで失敗することがあり得るのだから、どこまで自己責任を問えるのかは、状況によるだろう。

この本を読んでいてなるほどと思ったのは、自己責任論を唱える人は、「あなたは責任を果たしていない」という非難にとても弱いということである。この本の例では、かつてのナチスドイツの話として、国家が国民にユダヤ人に関する密告を奨励し、それはあなたの責任だ、としたことが挙げられている。こうすることで、ドイツ国民は自分の責任を果たそうとし、結果的にユダヤ人の虐殺に協力することになったという。これは極端な例だとしても、数年前のコロナパンデミックのときに、密を避けるなどのたくさんの責任を個人に負わされたことは記憶に新しい。「あなたは責任を果たしていない」という非難に、自己責任論では反論しにくいのである。したがって容易に世論に流されてしまうことも生じうる。個人主義を標榜しているはずの自己責任論者が逆に世間に流されやすい傾向がある、というのはまったくもって逆説的である。

これは、自己責任論には「誰に責任があるのか」という責任の所在に関する発想しかなく、その責任の内容や責任の限度に関する発想がまったくないことに起因する。責任の内容やその限度について考えることは自分と社会の関わりを考えるということであり、自分と社会とを切り離す発想の自己責任論では扱えないのである。

ここで、戸谷はある思考実験をあげる。

朝のラッシュアワーの駅の構内で、うずくまって泣いている小さな子供を見つけたとする。

自己責任論者であるあなたは、この状況はその子の自己責任であり私には関係ない、として切り捨てて立ち去ることもできたが(実際に多くの人が立ち去っていたが)、あなたは自分の意志で話しかけることを決断したとしよう。すると子供は親とはぐれたことが分かるとする。

ここで、この子を助けることにしたのは自分だから、と自己責任を発揮して、自分ですべてをやろうとしてもうまくいかない場合があることは明らかである。一緒に親を探しても見つからないかもしれないし、そのうちこれはこの子の問題であり自分は関係ないと思い直して子供を放り出せばさらに子供を危険な状態に放置することになるし、親が見つからないまま自分の家に連れて帰れば犯罪となる可能性すらある。

ここでやるべきは、駅員までこの子供を連れて行って、駅員にあとを託すことである。つまりすべての責任を自分で背負うのではなく、部分的な役割を果たせばそれで良しとする。「強い責任」に対してこれを戸谷は「弱い責任」と呼んでいる。人を助けるときには、このように人々が、部分的な「弱い責任」で連携するのが良いのである。

つまり、この例では子供が助かりさえすれば誰が何をしても良いのである。これをハンス・ヨナスというひとの言い方では、「誰の責任か」という責任の所在ではなく、「誰に対する責任か」を考えることなのだそうだ。

社会にはこのような「弱い責任」の連携の仕組みを備えているべきなのである。そして、自分でどうしようもない状況になったときは、頼ってもよいのだと思えることが、暮らしやすい社会には必要なのだという。

「強い責任」はあってもよい。しかし、それは「弱い責任」で補完される必要があるのである。

まあ、結局、自立しつつ連携する、という、なんとなく当たり前のことを言っているだけという気もしますが(笑)。

わしはこの本を読んで、「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」という本を思い出した。その本では、人々はお互いの生活に干渉しないが、困り事があると自分のできる範囲で助け合い、その結果過ごしやすい社会が実現できていて、自殺率が極端に少ない地域になっているんだそうだ。この本で言っているのは、たぶん、そういう社会のことだと思う。

www.hetareyan.com

★★★★☆

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