内山節(たかし) 講談社 2013.4.1(電子版、元の出版は2007.11)
読書日:2024.11.26
日本人は昔からキツネにだまされ続けていたが、1965年頃を境にそのような話は聞かなくなったという、その理由を考察した本。
キツネにだまされたという話は昔話によくあるが、それは全く昔話ではなく、つい60年前の1965年頃まで人々はキツネにだまされたという話が普通にされていたんだそうだ。著者は一年の半分を群馬県の山村、上野村で暮らしているが、そういう山村でも1965年頃にキツネにだまされるようなことはなくなったという。1960年代はちょうど日本が高度経済成長の絶頂期にあったころである。
村人たちがいかにキツネにだまされていたかというエピソードがある。明治になると外国人技術者が工事の指揮するために地方に滞在することがあったそうで、上野村にも外国人が来たことがあったそうだ。その時に評判になったのが、その外国人がまったくキツネにだまされなかったことだったそうだ。村人は不思議がったが、このエピソード自体が逆説的に村人が日常的にキツネにだまされていたことを示している。
村人になぜだまされなくなったのかその村人たちに聞いてみると、いろいろな意見が出てきたそうだ。やはり高度経済成長の結果だという答えがあり、また、科学の時代になったからとか、テレビで想像の余地のない映像の情報が届くようになったからとか、進学率が上がったからとか、森が人工的になってキツネの能力が下がったからとか、いろいろある。
ここで内山氏が考えるのは歴史である。
1965年までには我々の知っている歴史と異なった歴史が流れていたのではないかという。その歴史は文字にされなかったし、そもそも言語化できない種類の歴史だった。その見えない歴史は、人々の身体性や生命性に結びついていた歴史なのだという。つかみ取られた歴史であり、感じられた歴史であり、納得させられた歴史なのだという。
このような生命性の歴史は、それ自体捉えようがないから、なにかに仮託されなければ見ることができないものだった。「神のかたち」をしたものは仮託の代表的なもので、その本体は自然と自然に還ったご先祖様であり、その本質は「おのずから」なのだという。山の神、田の神、祭りや通過儀礼などの「かたち」で、そのなかに里の生命の世界もあった。
このような歴史が感じられる時代に人々はキツネにだまされたのだという。
まあ、言いたいことはわかるけど、言語化できない歴史って文字にできないので残らないんですね。たぶん、あと10年もしたら、そのような見えない歴史を体感していた人もいなくなっちゃうんでしょうねえ。
★★★☆☆