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個人投資家目線の読書録

はじめての人類学

奥野克己 講談社 2023.8.20
読書日:2024.10.18

人類学とは、人類とは何か、を探求する学問であり、人類学を語るときに欠かせないマリノフスキレヴィ=ストロース、ボアズ、インゴルドの4人の考え方を通して、人類を研究するとはどういうことかを語る本。

4人について紹介しているのだが、たぶん著者が一番伝えたいのは最後のインゴルドなのだろう。現在も生きていて、人類学の先頭を走っているんだそうだ。

この本を読んでいて最初の3人についてはよくわかった。ところが4人目のインゴルドに関しては、何をしている人なのかさっぱりわからないのである。非常に困惑している。

簡単に最初の3人ついて説明すると次のようになる。

マリノフスキ:文献による研究に飽き足らず、現地住民の中に飛び込む参与観察(フィールドワーク)を通して、単に生活を支える機能だけでなく、それ以外の「生の全体」をとらえようとした。

レヴィ=ストロース:どの社会にも、普段は意識されない隠された「構造」があることを発見して、「構造主義」として、人類学を越えて絶大な影響を与えた。

ボアズ:文化とは、ある集団の生のあり方であるとして、文化を比較する「文化人類学」を創設した。どの文化にも優劣はないという、文化相対主義に導いた。有名な例がベネディクト(ボアズの弟子)の「菊と刀」で、日本文化を恥の文化、西洋の文化を罪の文化として比較している。

まあ、なんとなく分かるじゃないですか、この3人については。

とくにフィールドワークを始めたマリノフスキについては、フィールドワークに調査結果を記録するノート以外に、個人的な日記をつけてそこに自分の感情を含めて赤裸々に記録しておく、というスタイルを取っていて、どうもこれが現在でもフィールドワークの典型的なスタイルになっているらしいこととか、けっこう面白い。

ところが4人目のインゴルドになると、ちょっとよくわからなくなってくる。

奥野さんによれば、インゴルドは「人はどうやって生きていくか(生の流転)」をテーマにしているそうだ。生きていくこととは様々な関係の中で何かを即興的に生み出していくことなんだそうだ。だから、人類学とは、なにか静的ですでに定まっていることを研究する学問なのではなく、動的に移り変わっていく世界との関係をどう構築するかを、人類学者がその世界に入り込んで一緒に哲学する学問なんだそうだ。(インゴルドの言葉を使えば、「人間の生と会話する」)。

実際、インゴルドが人類学に必要と考えている学問の中には、考古学やアート、建築という分野も含んでいるようだ。アートが入っていることからわかるように、手を使って思考することとか、自分の内側から知を生み出すような方法なんかも含んでいる。さらには、環境との関係をみるために、生態学なんかも取り込んでいるようだ。

まあ、言っていることは分からないでもないけれど、そうなると人類学は人類に関係する何でもかんでも取り込んでいくということになり、他の学問との違いがよくわからなくなってくるのではないかと思える。とくに社会学との境目がよくわからないなあ。実際、社会学現代社会の中の、ほんとうの参与観察といえるものだし。

奥野さんによれば、人はいつの時代でもどこにいても「生きづらさ」や「生きにくさ」を抱えている。生きているとは、生の困難を同時に抱えることである。そのような人類全体の課題に挑むのが、人類学なんだそうだ。

まあ、意気込みは分かるし、言っていることもわかるけど、なんだか定義が拡散しすぎてしまって、学問の一分野として成り立つのかしらっていう気がしてくるなあ。だってさ、人類学に限らずどんな学問でも、究極的には人類とか、人間とか、生きていくことはどういうことか、という課題につながっていくんじゃないのかしら?

ちょっとこの本だけではイメージがわきにくいので、現代の人類学については、インゴルドの本を何冊か読んでみないと、判断できなさそうだ。

****「外部」について****
人類学の特徴というのは、結局のところ、自分を知るために自分以外の「外部」を観察するという手法にあるようだ。

人類が何かを知ろうとして、人類の中に自分たちと全く違う種類の人類がいるので、行って観察した(マリノフスキ)。さらに深く考察すると、その中に現地の人も意識しない構造があることを発見した(レヴィ=ストロース)。それぞれの集団の生き方を文化と名付けて、文化を比較した(ボアズ)。

だが、こうした手法が成り立たなくなっている。なぜならば、いまは人類が均一化して、人類の中に「外部」が存在しなくなってきたからだ。奥野さんによれば、すでに世界中のどの民族にもスマートフォンが行き渡り、Wi-Fiがつながっている状況なんだそうだ。観察対象の「外部」がなくなることは、人類学の死だと奥野さんは言う。

そういうわけで、人類学という学問分野が存在するには、新たな「外部」が絶えず必要になるということだ。

そのひとつの可能性が、時間をさかのぼった過去に「外部」を求めることだろう。考古学を学んで、人類が遠い昔にいったいどんな可能性を持っていたか探って、比較するのだ。デヴィッド・グレーバーが「万物の黎明」で用いた手法だ。

www.hetareyan.com

インゴルドも考古学は人類学に必要不可欠と思っているようだし、こちらは今後ともに大きな発展が期待できそうだ。(なお、時間という意味では、未来を「外部」として観察するという方法もないわけではない。未来はまだ出現していないから、可能性の未来ということになるけど。すでにSFと変わりない?)

もうひとつが人類以外の「外部」、つまり人類以外の種や生態系にまで、外部を広げる方向だ。これは、たとえば地質学の「人新生」とかにも絡んでくる。

これはどうかな? なんかすぐに行き詰まって、うまくいかない気がする。地球自体が閉じた空間だから、外部感が低い気がするなあ。

まあ、人類がスペースコロニーで宇宙に拡散すれば、また新しい人類が生まれて、「外部」ができるのかもしれないけれどね。ニュータイプとかね(笑)。

★★★★☆

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