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ジョン・ロック ―神と人間の間

加藤節 岩波書店 2018.5.22
読書日:2024.10.6

ジョン・ロック私有財産を主張して資本主義の流れを決定づけた印象があるが、本人は敬虔なキリスト教徒で、すべては神の意思を人間の法に適応しようとした結果であり、ロックは宗教哲学者であると主張する本。

ルソーの評伝がけっこう面白かったので、それならばもう一方の雄であるロックはどうなんなんだろう、と思ってこの本を手にとった。でも、どちらかと言うと、ロックはそんなに面白い人ではなかった(笑)。

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ルソーが良くも悪くも人間臭い人なのに対して、ロックはどうも真面目一辺倒のように見える。たぶん女性ともちゃんと付き合ったことがないのではないか。

当時の思想家は政府から危険視されることも多いけれど、ロックもイギリスを抜け出して、長らくオランダなどに亡命している。そういうわけで、ロックの人生もそれなりに命をかけるようないろいろ苦労があったわけで、真面目な学者というだけでもない。それに生まれもそんなに裕福というわけでもなさそうだし、高学歴のキャリアを歩んだけれど、それも有力者から支援を受けたからだった。

ロックはひどく真面目な人で、その思想の目標というのは、キリスト教徒としてなんとか人間の道徳、倫理というものが神の意思の反映だ、という形にまとめることだったらしい。その試みは結局失敗しているのだが、ともかくロックの考え方の中心には必ず神の存在があったわけだ。

そうなるとちょっと不思議なのは、ロックの主張した私有財産の不可侵性というのが、あまり神と関係なさそうなことだ。現在ではその部分だけ取り出されて、神のことはどこかへ行ってしまっている。そもそもロックはキリスト教からどのように、私有財産は人間のもっている自然な権利だ、と主張できたのだろうか。

単純には次のようである。人間は神から産めよ増やせよと子孫を増やす義務がある。そのためには「資産」を持ち、自己保存をし、子孫を再生産する義務があるというのである。そして、人間は勤勉に働いて、その労働の成果物として「資産」を持つ必要がある。そういうわけで、私有財産を持つことはキリスト者として当然の権利ということになる。

ということは、これは要するに、カルヴァン主義とか、ウェーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理」ということに他ならないわけで、別にそんなに変わったことを言っているわけではない。

私有財産と同様に、自由も財産(プロパティ)のひとつだという。なぜなら神への義務を果たすためには、神への義務が何かを認識するための理性を行使する「自由」が不可欠だというのである。

ひとそれぞれが理性を行使すると、それぞれのひとが異なる結果になるかもしれない。だから、ひとは「信仰の自由」や「政治的信条の自由」などがなければならないという流れになるらしい。

こういい切れるのも、理性を働かせさえすれば、ひとは皆同じ結論に達して、神の意思にたどり着けるという楽観があったからだ。なので、ロックは自分の理性でそうなることを証明しようとしたわけだ。

聖書には信仰については書いてあっても、神が人間に期待する倫理については何も語っていないのだそうだ。そうすると、人間が理性を働かせてそれを推測する必要があるわけで、それをロックは導こうとしたのだが、じつはロックはそれを導くことに失敗したのである。

ロックは、そのころ急速に発展しつつあった科学的な事実から、このような整然とした規則があるのは神の存在を証明している、などという「神の存在」証明については説得力ある議論を展開できた。しかし、それがどのような神の意志を表しているかということは何もいうことはできなかったのである。(そりゃそうだよね(笑))。

こうしてみると、ロックはなんかいまいちだなあ、という気がする。人間の自由に神を持ち出さなかったルソーのほうがマシなような気がする。ルソーはより深いところから考えたのだけれど、しかしその結果として独裁を許すような発想になってしまった。

一方、ロックはその思想の一部だけが資本主義の社会を作るのに都合よく利用されただけのように見える。

世の中では、ロック的な考え方とルソー的な考えかたが戦っているように見える。しかしそろそろ、それらを超えるような思想がほしいなあ。

(参考)

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★★★☆☆

 

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