近藤正高 講談社 2015.9.1
読書日:2024.6.22
1946年生まれのタモリの足跡をたどれば、戦後日本の歩みもたどれると主張する本。
上記の主張は間違ってはいないけど、そもそもどんな人の評伝であってもその時代の国の歩みの影響を必ず受けるものである。だから、それはすべての評伝について言えることである。タモリの評伝自体は多数出ているそうだから、きっと何らかの差別を付ける意味で、このような主張をしているんじゃないかと思うが、内容的には単純にタモリの評伝でございました。
というわけなのだが、タモリのデビューのきっかけとかブレークしたあとのことはよく知られているけど、わしはデビュー前の福岡での「空白の7年間」の話が興味深かった。
早稲田大学のモダンジャズ研究会のマネージャーとして演奏旅行を取り仕切っていたタモリだったが、父親が亡くなったときにも演奏旅行に出ていて連絡が取れず、親戚中の顰蹙を買ったらしい。しかも、マネージャー業はとても良くお金が稼げて、金回りが良かったタモリはヤクザになったんじゃないかと噂になった。それで大学を卒業すると(実はすでに学費を払わずに除籍になっていたんだけど)、親戚に福岡に拉致されて、1970年、生命保険会社に入れられた。
生命保険会社での営業成績は良くなかったという。どうも弁が立ったのがいけなかったらしい。成績優秀者の営業マンは、内容をまったく説明せずに、「お任せください。大丈夫です」というだけだったという。なーるほど。客は最後のひと押しが欲しいだけだったんだね。これじゃあ、タモリの饒舌は逆効果だったのも分かる。結局、生命保険時代は、嫁さんをもらっただけで終わったらしい。
しかし、おなじ早稲田の先輩の実業家、高山三男に気に入られて、ヘッドハンティングされ、1972年、大分のボウリング場の支配人になる。早朝から深夜まで、機械の整備から経理まで、12人の従業員を率いて大いに稼いだらしい。もちろん無欠勤である。
それが1年半して1973年、また福岡に戻って、高山三男の長男のフルーツパーラーのバーテンダーになる。フルーツパーラーにもお客はよく入って、これまた休むことなく真面目に働いて、正月は休めと言われたのに店を開けたそうだ。近所には生命保険会社があり、昼間は生保レディのたまり場になっていて、タモリはおばちゃんたちのアイドルだったという。
一方では、夜に店に行くと、デタラメな外国語などで店や他の客を笑わせて独演会になり、必ず朝帰りになったという。それでも次の日は出勤していたそうだ。
なるほどねえ。ネタはナンセンスでめちゃくちゃだけど、仕事はきちんとして、律儀。しかもおばちゃんにモテる。まあ、きっとタモリは芸能界に入らなくても立派な人生を送ったに違いない。
★★★☆☆