喜多川泰 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2019.3.30
読書日:2024.5.17
(ネタバレあり。注意)
人生の全てに行き詰まっている修一は一台のタクシーに乗るが、そのタクシーは謎のポイントをメーターに表示し、そのポイントが残っている分だけ、修一の運命を変える場所に運んでくれるのだというのだが……。
謎のタクシーに乗って、運転者の言うとおりにすると、いつの間にか運が好転しているというこの小説だが、読んでいてちょっと考えてしまった。
運転者のアドバイスは、上機嫌にしていないと身近にある運に気が付きませんよ、とか、幸せのきっかけを掴んでもその効果はすぐに現れない、とか、運は知らないうちに蓄えている、とか、使われなかった運は後世のひとに託せる、とか、まるで自己啓発書か仏教の陰徳(人知れずに徳を積むこと)のような話が書かれいる。
これらは前向きだし、悪くはない話である。そして、それを納得した主人公の修一の運が好転して、思いがけない方向から幸運がやってくるという話は、まあ、どうとでも語れる話ではある。
釈然としないのは、「運」というものに対する感覚である。
わしはどうもこの、運がいい、運が悪い、という感覚がよく理解できない。なにか悪いことが起きたとしても、それは起きたことであり、それが自分にどの程度の影響があり、どう対処すればいいか考えるだけである。つまり起こったことは現実であり、それをことさら運という超現実な運という現象と結びつけて考えるようなことはしない。運が悪かった、という言い方をすることはあるけれど、運に実体があるとは思わない。逆にいいことが起きても、運と結びつけて考えることはない。
しかしながら、この本は非常によく読まれており、わしが手にとった本は初版から半年後ですでに16版であり、アマゾンのレビューはすでに1万5000個ほどであり、この本のプレミアム版には115万部売ったとの宣伝文句が書かれてある。
何が言いたいかと言うと、とてもとても多くの人がこの本に共感しているという事実である。すると、多くの人がこの本と同じような感覚でいると考えていいだろう。
これは日本人特有の感覚なのだろうか。
しかし、「運」に対応する言葉や考えは世界中にあるのではないかと思われる。「運」自体は人間に普遍的にある発想なのだろう。もしも日本的(or東洋的)な部分があるとすれば、それが個人の枠を超えて、集団全体に貢献しているというところなのかもしれない。
・人知れず行う努力は、運として蓄えられる。
・運は自分で使うことも可能だが、後世の人に譲ることもできる。
このように考えれば、たとえ自分の人生に直接報われないとしても、自分の人生は決して無駄ではないと考えることは可能だろう。承認欲求にまみれたこの世の中で、他人の承認を必要とせずに自己充足できる考え方である。生きているだけで価値があるということでもある。
いいのではないか。わしはこういう考え方はしないけれど、こう考えることで納得できるのなら、そんなに悪くはない。
なお、題名の「運転者」は運転手のことではなくて、運を転ずる者、という意味だそうです。へー。
★★★★☆