スコット・レイノルズ・ネルソン 訳・山崎由美 日本経済新聞 2023.10.13
読書日:2024.4.19
帝国は穀物の通る道にできる、というネルソンが、ロシアとアメリカの小麦の生産とがとくにヨーロッパに与えた影響を述べた本。
たぶんこの本が翻訳されたのは、ウクライナ戦争の影響だろう。原著が発売されたのは2021年で、ウクライナ戦争の直前だった。そして、ウクライナ戦争が起きたとき、多くの人がウクライナの小麦はどうなるのだろう、と心配した。実際、小麦の輸出が滞ってしまい、アフリカ諸国が食料の確保に悩んだことは記憶に新しい。
というわけで、この本はほとんどウクライナとアメリカの小麦の話である。この本を読んで、ウクライナの小麦の存在感の大きさを実感した。ウクライナの小麦が19世紀ヨーロッパに与えた影響はとてつもなく大きい。
ヨーロッパにウクライナの小麦が輸出されるようになったのは、ロシアのエカチェリーナ2世の重農主義的な政策のおかげで(18世紀後半〜19世紀前半)、ロシアはオデーサ(オデッサ)という輸出用の新しい都市まで作ったのだ。大量の小麦がヨーロッパに輸出されるようになって、小麦を輸入した港湾都市の食料がどんどん安くなっていったのだという。この結果、田舎よりも港のそばの都会のほうが食費が安くなったのだそうだ。それで労働者もどんどん都市に集まるようになって、産業革命を後押ししたのだという。つまり、ロシアの安い小麦のおかげで、プロレタリアートという新しい階級が誕生したのだ。また、ロシアの安い小麦に押されて、ヨーロッパの農村の価値が下がり、地価が右肩下がりに下がっていったのだそうだ。(著者は『リカードのパラドックス』と呼んでいる。リカードは19世紀の経済学者)。
ロシア産の小麦がヨーロッパにプロレタリアート層を作り、そのプロレタリアートが革命を起こすという物語を社会主義者たちが作り、ついにはロシアに革命を起こしたのだとしたら、なんとも皮肉な話である。
そして同時に、ロシアの不利な地理的条件も考えずにはいられない。ウクライナの小麦は黒海を通して輸出されるのだが、ボスポラス海峡で出入り口をトルコ(オスマン帝国)に押さえられてしまっており、厳しい状況なのだ。この制約を打破しようと、ロシアはなんどもこの海峡を制圧しようとするが、結局、失敗する。クリミア戦争もロシアの小麦に完全に支配されることを恐れたイギリスとフランスがトルコに付いて起きた戦争だった。
一方、アメリカの小麦が躍進したのには、鉄道と関係がある。鉄道が西進していくにつれて、鉄道会社は沿線の土地を売り出して、そこで小麦を作らせた。鉄道は融資も行い、物も販売した。小麦は鉄道で東の都市に運ばれ、帰りに生活雑貨などを積んで戻ってきた。小麦を販売してお金を手にいれた農家はとても良い消費者にもなったのだ。こうして鉄道会社は往復で儲けた。
鉄道と小麦の関係を強力に印象づけたのが、南北戦争だ。軍はつねに兵士の食料をどのように運ぶかという問題を抱えているが、南北戦争では北軍は鉄道を使って戦場まで小麦を運んだ。なお、このとき北軍は調達方法として、現代的な先物取引の方法を開発している。(受け渡し月数が決まっていて、一定の大きさに小口化された手形が売買された)。こうして先物取引の証券は本物の小麦と同一視されるようになる。
アメリカの小麦は鉄道を使って東海岸の港まで運ばれたので、低コストでヨーロッパに輸出された。また、ダイナマイトの発明で土木工事が簡単になり、水深の深い港が作られて、大きな船が接岸できるようになったことも大きかった。さらに先物取引の便利さも加わって、トルコに出口を押さえられてコストが下げられない黒海経由のロシア産小麦を圧倒し始めた。
ロシアも黒海経由ではない輸出ルートを模索して、オデーサから北に向かいバルト海のケーニヒスベルグ(ドイツ)に到達する路線を開設して、そこから輸出できるようにした。ただしウクライナの人々は貧しかったので、復路は空荷だったそうだ(笑)。またこの路線開設の資金を出したのは、フランスの人たちだったそうだ。
この方法がうまくいったので、ロシアはさらに列車を東に伸ばすことにする。シベリア鉄道だ。やはりフランスからのお金を頼りに、東に伸ばし、さらに中国の黄海に至る満州鉄道も建設して、東の不凍港も手に入れる。そのロシアの思惑を打ち砕いたのが、日露戦争の敗北で、シベリア鉄道の莫大な建設費を返すこともできずにロシアの鉄道事業は破綻してしまう。というか、ロシア自体が破産した。
ここから先は、著者のネルソンは、パルヴスというペンネームのロシア人の動きに焦点を当てる。この人物は共産主義者なのだが、オデーサの商人の出身で、穀物と帝国の関係について知り尽くしていて、穀物の側からロシアの革命を先導した人物だ。パルヴスは19世紀にヨーロッパ経済を分析して、アメリカの小麦が農業恐慌を引き起こした、と主張した。
彼は財務諸表を確認して、ロシアの鉄道事業が破産したことを明らかにして逮捕される。すぐにトルコに脱出して、トルコでは革命に協力して、穀物と武器を密輸して億万長者になるという、共産主義の革命家としてはいかがなものかということもしている。(そんなこともあって、ロシア革命が成功したあと、歴史の闇に葬りさられたらしい)。
第1次世界大戦が始まると、ロシア軍は軍のための小麦の価格を低価格に設定して調達する。残った小麦は、軍の低価格の埋め合わせに高価に設定されたため、小麦の価格が急騰した。この結果、小麦は市場に出回らなくなり(たぶん売り惜しみ)、都市の住民が生産地へいって小麦を調達しようとしたが、各県の知事が小麦の移動を禁止した。この結果ますます小麦がなくなり、パンの値段は10倍になったという。
パルヴスは、ロシアで革命が起きれば革命政府はドイツと停戦する、と言ってドイツ政府と交渉し、革命のための資金を捻出した。調達した資金はプロパガンダに投入した。廉価な新聞を大量に発行して、ついにロシア革命を起こすのである。
こうしてみると、どうもロシアという国は、ウクライナをうまく使っているときには発展するが、それがうまく行かなくなると危機に陥っているようにも見える。ウクライナ戦争を始めたのもそのせいなのだろうか。
国の活動の根幹をなしているのは食料とエネルギーの確保である。だが、エネルギーに比べて食料が注目を集めることは少ないように思える。たぶん、石油が世界の中で特定の地域に偏在しているので、より希少という感じがするのかもしれない。とくに石油が出ない日本にいると。
でも食料のほうが大切なのだろう。ヨーロッパは農業大国のように思っていたけど、こうしてみると、ヨーロッパもアメリカ産の小麦などに押され、食料自給率が低い時期が長くあったのだ。この本は第1次世界大戦で終わっているけど、第2次世界大戦後、ヨーロッパではゆっくり自給率が回復している。たぶん緑の革命と保護主義のおかげだろうけど。
わしは、食料を工業的に生産できないのはなぜかと疑問に思っている。不可能ではないけど、きっと農業で生産したほうがまだまだぜんぜん安いということなんでしょうね。
著者の謝辞を読んでいて驚いたけど、著者のネルソンは、「反穀物の人類史」を書いたジェームズ・スコットと関係のある人なのでした。この世界も狭いねえ。
★★★★☆