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議論の技法 トゥールミンモデルの原点

ティーヴン・トゥールミン 訳・戸田山和久、福澤一吉 東京図書 2011.5.25
読書日:2021.4.11

論理学を現実の議論に拡張して適用するには、蓋然性を導入して、推論が展開できるようにしなければいけないと主張している本。

と、上のようにいちおう一言でまとめたが、じつはこの本を読んでいて、どういう本なのかよくわからなかった。

この本は1958年に初版なのだが、そもそもこの発表された段階で、論理学の世界で何が分かっていて、この本で何が新しいのか、わしにはよくわからなかった。そして、論理学の本なのに内容の表現はシッチャカメッチャカで、まとまっているように思えず、よくわからなかった。この本、論理学を扱っているんだから、もっと論理的に分かりやすく書けなかったんだろうか。(それともこの世界の人にとっては十分わかりやすいんでしょうか?)

なので、あまり良く掴めなかったので、たぶんこんなことを言ってるんじゃないかな、ということを以下に述べる。

論理学というのは、アリストテレスの三段論法が基本になっているそうです。たとえば、以下のような内容だ。

 アリストテレスは人間である。
 すべての人間は死すべきものである。
 したがって、アリストテレスは死すべきものである。

ところが、この議論は論理として成り立っているものの、「すべての人間は死すべきものである」という知識から一歩も新しい知識が展開しない。

現実の人間の議論というのは、ああでもない、こうでもない、といろんな思いつくことを持ち出して、それが妥当かどうか検討することで、次に展開していくものである。でも論理学には、そういった展開はありえないらしい。なぜなら、それは論理的でないから。

そこで、トゥールミンが導入しているのが(べつに彼が初めてというわけではないだろうが)、蓋然性と時制という考え方らしい。

蓋然性というのは、確からしさのことで、例えばスェーデン人の98%はカトリックではない、というデータだ。でも、トゥールミンでは、こうした統計的なデータが必ず必要だと言ってるわけではなく、どうもその場ののりで基準を設定してもいいらしい。例えば、「ほぼ」とか「ほとんど」とか「だろう」とかそういうあいまいな基準を持ち出しても、議論としては成立するという。

よくはわからないが、こういうことを認めれば、不確定なこと、たとえば推論を議論に持ち込めるってことなんじゃないかな。

そして、たとえば次のように図式化できる。

 

ハリーは         ハリーは

バミューダで ーーーー> 英国人で

生まれた         ある
        ↑
       なので
        |
    バミューダ生まれのひとは

    英国人だろう      

 

もう一つの時制というのは、すでに確定したことを議論の問いにすることはできない、ということだ。たとえば、裁判になる前に弁護士に「この案件を裁判にすることは可能でしょうか」と聞くことはできる。しかし裁判所がこの案件を受理したあとで弁護士に「この案件を裁判にすることは可能でしょうか」などと聞くことはできない。弁護士は困惑するだけだという。

時間的な関係を考慮に入れないと議論がうまく行かないというのは、そりゃそうだろう。(いま見返してみたら、本の中で「時制」という言葉は使っていないようだ。でもまあ、面倒なので、このままにしておく(笑))。

たぶん論理学って、すべての議論を数学的に表現したい、という欲望をもっているんだと思うんですよ。だから望むべきは、すべて記号として扱い、数学みたいに処理したいんじゃないかって思う。そして議論は演繹的に進むべきだって。

でも普通、人間の思考は演繹的じゃなくて、帰納的なんじゃないかな。

科学だってぜんぜん演繹的じゃない。科学とは、事象を集めてそれを説明する最も確からし仮説を提唱する学問なんであって、科学をやっている人は、あらゆる説はあくまでも仮説だ、という認識があるんじゃないでしょうか。

論理学がもっとも好きそうな科学である数学にしたって、演繹とは思えない。最終的には論理的にまとまっているから演繹的にみえるけれど、数学者の頭の中では演繹的に考えていないと思う。たぶんこんなことが成り立ってるんだろうな、という推定や類推を行って、思いついたあとで証明するというふうに、帰納的に考えてるんじゃないかな。(だから数学には未解決問題がたくさんある)。

トゥールミンも帰納的については好意的で、それについて一章を設けて、帰納的な発想をどういうふうに論理学に持ち込むか考えているようだ。でも、大切なのはとそっちじゃなくて、類推でもなんでもいいから、新しいことを思いつくことのほうなんじゃないの? だって議論する人にとっては、その技法じゃなくて、新しい知識のほうが重要でしょ? だから、どうも論理学の発想って、的はずれなんじゃないかって気がする。

そういうわけで、わしは「演繹法からはなにも新しい知識は生まれない」という仮説をここで提唱したいと思います。

ちなみにトゥールミンが有名なのは、上記の図式化が、「これは便利!」といろいろな局面で後の人に使われたからで、あんまりこの本の内容と関係なさそうな気がしています。

この本は、独学大全で引用されていたから読んでみようと思ったんですが、相当いまいちでした。

★★★☆☆ 


議論の技法

 

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