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中村元選集 決定版 第2巻 東洋人の思惟方法 / シナ人の思惟方法

中村元 春秋社 1988.12.8
読書日:2021.1.4

中村元が述べる東洋人の思惟方法については、第3巻の日本人の思惟方法について、すでに読んでいる。このとき、あまりに納得性が高かったので、シナ人の思惟方法についても今回読んでみようと思った次第。

ただ、日本人ついては、もともと著者が日本人だから、参考文献を広く集めることができたであろうが、中国人についてはそういうわけにはいかない。ではどうするかというと、中村元は仏教を中心とする宗教学者だから、中国人がどのように異国インドの宗教である仏教を受容したかという視点から、中国人の考え方の癖を見てみようということである。ということは、そうとう昔の中国について述べているわけで、果たして現代のグローバル社会に適応した中国人について当てはまるだろうか、という疑念がある。しかしとりあえず、中村元の述べていることを見ていこう。中村元のみる中国人とはどういう人たちなんだろうか。

 (1)なんでも具体的でないと気がすまない

インド人は抽象的な表現や思考方法を全く苦にしない人たちで、とくに無限という感覚を自由に操る。例えば、「一を知って一切を知る」という表現をよくするのだそうだ。ところが中国人は「一を知って残り三を知る」と言い換える。つまり全体を4つに分けるというような具体的な状況を思い浮かべないと、ピンとこないのである。このような傾向が「万里長城」とか「千里眼」というわざわざ数字に置き換える表現をする。(たとえその数字に意味はなくても)。

そういうわけで、抽象的、論理的な思考が苦手である。そのかわりに、自分の感覚、とくに視覚に根ざした考え方をしようとする。したがって、図に表して、直感的に理解しようとする。世界の構造も絵に置き換えて理解しようという傾向がある。一般に自分の目で見ていないものは信じない傾向がある。

(2)個別的に捉え、一般化をしようとしない

中国人はすべてを個別的に捉えようとする。一般化してとらえようとはしない。例えば、「川」に関する一般的な定義がない。川には「河」、「江」といった字を当てるが、黄河揚子江といったそれぞれ別の固有の川を表している。そういった個別の川をいくつも並べることで、川というものを説明しようとする。同様に中国語には山というものの一般的な定義がない。山という字はたくさんあり、それぞれ別の山を指している。

(3)論理的に考えない

川や山すらも一般化しないのであるから、そもそも物事を一般化、抽象化して思考するのが苦手で、物事の裏側にある原理や法則について考えるのが苦手である。あくまでも感覚に根ざした直感的な理解をしようとする。

その結果なのか、論理的な思考も苦手である。例えばインドでは論理的な思考をするための論理学が発達した。ところが、中国人は多くの仏典を翻訳したにも関わらず、論理学の本をまったく翻訳しなかったという。そして、背理法についてはまったく理解できなかったらしい。(背理法とは、ある仮定をたてて論理を進め、仮定と矛盾する結論が出たら、その仮定は間違っているということ)。

(4)たくさんの事例を集める

一般化してものを考えないせいか、個別的、並列的な事実を多数集めようとする。特に歴史などでは、一般化したものの見方よりも、とにかく事実をたくさん集めようとする。その内容がたくさんあるほどよい。原理、法則よりも量が優先する、といった考え方だろうか。(この辺は「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」に書かれてあることとよく似ている)。

(5)昔を重んじて、発展性がない

孔子が起こした儒教は、要するに昔が全て良いのだから、昔に戻ろうという尚古主義(昔を尊ぶこと)の学問である。そもそも孔子の述べたことにも新しいことは何もなく、ただ昔が良いと言っているだけである。これが国の根幹の考え方ということになった後は、ほぼすべての新しい考え方は生まれなくなり、学者の仕事は注釈書を作ることにほぼ費やされた。宋学朱子学)は、新しいことほぼなく、単なる分厚い注釈書になっている。

たくさんの事例を集めて文書を作成したが、古い文献との整合性がもっとも重視され、無理やりにでも一致させて、それで満足するところがある。

このような尚古主義の結果、仏教が道教と論争になったとき、原理的な話ではなく、どっちが古いかという論争になり、仏陀が弟子を中国に派遣して道教が起きたといった偽書が作られたりした。どっちがよりいい、とかは関心がない。

(6)中国独自の仏教 禅が発展した

中国では独自の仏教として、論理性よりも直感的に理解する禅が起きた。論理性よりも、師と弟子の間の問答をたくさん集め、この問答で直感的に理解できることを目指した。

(7)人間中心=現実主義的=個人主義

中国語ではすべて人が主語になっており、客観的な表現ができない。また受け身の表現もない。この結果、形而上学はついに発展しなかった。

人間中心であるので、中国には世界がどのように誕生したとかいう神話がほとんど存在しない。死後にも関心がなく、地獄という概念もなかった。関心はあくまでも、現在の現実にある。

人間中心の考え方は、自分や家族を中心に考えることになり、中国独自の個人主義を生み出している。ただし、もちろんそれは自己中心的であり、グローバルで一般化された個人というものではない。

この個人主義は、仏教では身分や階級を問わない平等な考え方をもたらした。また、個人は戒律をよく守る。どこかの組織として戒律を守るのではなく、個人として守る。中国人は、宇宙の根本原理のことを、「道」と呼んでおり、個人と道が結びついている。この個人のあり方は、近代に西洋に伝わって、近代思想に大きな影響を与えたそうである。

(8)人間は自然の一部

中国人は自然本来の本姓を尊重し、その本姓をそのまま発揮できればいいと考えている。したがって、人間もその本性を展開できればいいと考える。したがって日常や現実の生活を強く肯定する。

人間が天(宇宙)から生まれたのだから、人間の道は天の道と一致する。人間がその本性をそのまま発揮するということは、天の道に通じる。人間の本姓は天道であるから、人間には生まれつきの悪はいない。絶対悪はいないし、許されないほどの悪もない、と中国人は考える。(もともと中国語には「魔」という言葉はなかったそうだ。これはわざわざ中国にないインドの観念を表すために創られた文字なんだそうだ)。

すべての人間が許されるように、あらゆる異端は許される。あらゆる異端は承認され、包み込まれ、一緒になってしまう。いまでは仏教と道教の区別は一般人にはなく、さらには仏教の寺院にも関帝廟があるという状況である。

(わしは、この人間は自然の一部(天と人が直接繋がっている)という感覚が、(1)~(7)の根幹にあるような気がする。)

 

さて、おそらく一般の市井の中国人の発想というのは、いまでも中村元の書いたこととあまり違っていないだろう、という感じがする。日本人に似ていて理解できる部分がけっこうある。そういう意味では中国人の発想の仕方の理解が深まった気がする。

でもねえ、どうもこの市井の民の感覚は、為政者の感覚とはずいぶん違う気がする。やっぱり、中国の為政者には独特の残酷さがあると思う。大量殺戮の覚悟があるというか。中国って、上と下が大きく分断しているんじゃないでしょうか。

やっぱり日本人が気になるのは、中国共産党の発想(=歴代の中国王朝の発想)ではないでしょうか。この本からはそれは理解できないと思います。というか、まあ、それはもともとこの本の範疇ではないのですが。

とはいっても、中村元が書いているように、中国は歴史書では戦争ばかりしているように見えるけど圧倒的に平和な時期の方が長かった、というのは、それはそうでしょうね。

★★★★☆

 


中村元選集 決定版 第2巻 東洋人の思惟方法 / シナ人の思惟方法

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