ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門

加藤文元 講談社 2025.10.20
読書日:2026.4.23

ZEN大学教授のブンゲン先生が「圏論」について、「米田の補題」までを理解できることを目標にした本。

なんか評判らしいので手に取ったわけです。ブンゲン先生については以前、次の本でお世話になったことがあります。いつの間にかドワンゴが作ったZEN大学の教授になられていたんですね。

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IUT理論(宇宙際タイヒミュラー理論 )もなんか圏論と関係ありそうだし、20世紀の新しい数学というものに触れてみることにしました。

圏論というのは一言でいうと、モノとモノを矢印でつないでその関係の形だけを議論する、というものです。モノ自体が何か、ということは議論しないんですね。だから同じ関係を作れるのなら、それが整数のような数だろうが集合だろうが同じように議論できてしまうんです。

その意味は、文学的に言うなら、あなた自身がどんな人かは直接分からなくても、あなたと関係する人や物事との関係が全部分かれば、あなたがどんな人か分かる、と主張しているような数学です。

そして「米田の補題」というのは、ざっくり「関係性が全く同じ形をしているのならそれは同じモノだといってもいい」ということを証明するものです。これが何を意味するかというと、例えば数論と幾何学を見比べて同じ関係性を持っていたら、数論で考えて分からなかったら幾何学で考えて問題を解いて、それをまた数論に戻してもいい、ということです。

これは人間でいうとアナロジーが効くということなんですね。人間があることを理解するのに、全く関係ない違う分野から、「これは〇〇に例えるなら、こういうことと同じなんだな」というふうに理解するようなものです。だから普段から人がやっているようなことを数学でもできることを証明しようというのですが、そんなことが果たしてできるのでしょうか。

読んでいくと、「直積」という概念の矢印の関係図が出てくるんですね。直積を使うとある整数と別の整数の最大公約数が表現できてしまうんです。本当に矢印だけで最大公約数が表現できるということに、ちょっと感動しました(笑)。直積は集合でいうと、交わっている(A∩B、AND)の最大値を表しているともいえるし、いろいろなところで使える概念です。(ちなみに「直和」という足し合わせる概念もあります)。つまり、これは関係性を示すことで、その中身も議論できるということを示す例ですね。

こういう矢印で作られたある関係のかたまりを「圏」と呼ぶんですね。そうすると、圏と圏の関係も矢印で結べてしまうんです。この圏と圏を結ぶ矢印のことを「関手」と呼びます。それだけではなくて、圏と圏を結ぶ矢印が2つあったら、つまり関手が2つあったら、その関手どうしの関係もさらに矢印で結べるんです。これを「自然変換」といいます。

自然変換ってへんな名前だけど、どうももともと数学の世界で、座標系をどんなふうにとっても同じ結果になる、というようなことを意味しているらしいです。たとえば直交座標で測定しても、極座標で測定しても、最終的にはおんなじみたいな。だから、圏論の自然変換も、図形でいえば座標変換をしているくらいのイメージでオーケーです(たぶん(笑))。

ここで、ある圏のなかのひとつの要素aと、要素aと矢印でつながっているすべての要素xを取り出すという特殊な関手、haを考えます。関手haで取り出された圏は、aに関係するすべてのものを取り出しているので、a自身を表現している圏と言えます。

この関手haを自然変換したFという関手を考えます。Fはなんでもいいです。

ここで、a→a、つまり自分自身に戻ってくる矢印(同型射(どうけいしゃ)という)は、Fで自然変換するとF(a)になります。すると、y:自然変換(ha、F)→F(a) というような写像yを考えることができます。これを米田写像といって、この米田写像が全単射、つまりhaで取り出したすべての要素が、関係性を含めて、1対1でFの写像先にもあるという証明ができるんですね。これが米田の補題です。つまりイメージ的には、aに関する関係を、別のFの圏にそっくり写したということが言えます。

逆にいうと、ある圏と別の圏があって、それが米田写像だと証明できれば、そこのある要素と要素同士の関係は全く同じだ、ということになるはずです。だから別の圏に移って、そこで成り立つことはもう一方の圏でも成り立つということが証明できるというわけです。たぶんそういう意味のはずです(笑)。

たぶんというのは、この本では米田の補題がどんなふうに役に立つのかの実例とかはまったく書かれていないから。なので、米田の補題が重要だといってるんだけど、どんな感じに重要なのかよくわからなったです。その辺がとっても不満なんだけど、まあ、いちおう基本は理解できたかな。

じつはこの本を読むときに、分からないところをいろいろAIに訊きながら読み進めていきました。なので、かなりの速度で読み進めることができました。わしは数学なんかはいちど引っかかるとなかなか先に進めないたちなので、もしもAIがなかったら図書館の貸出期限内に読み切れなかったかもしれません。疑問がその場で解決できるAIは本当に便利です。(なお、今回はグーグルのGeminiに訊きました)。

そのGeminiのいうには、米田の補題を応用した例について読みたいのなら、グロタンディークという人の「孤独な数学者の冒険」という本を読めばいいと勧められました。グロタンディークはなんかすごい人らしい。AIは本当に役に立つなあ。

★★★★☆

チャーリー・T・マンガーの金言

チャーリー・T・マンガー 編・ピーター・D・カウフマン 訳・貫井佳子 日本経済新聞 2025.9.30
読書日:2025.4.14

バークシャー・ハサウェイの副会長、ウォーレン・バフェットの右腕だったチャーリー・T・マンガーの言葉や講演内容を集めた本。

マンガーといえば、バフェットがベンジャミン・グレアムの投資方法(まだ価値があるのに市場から見捨てられている銘柄に投資する方法、しけもく投資法)から次のステージに移る手助けをした人物として有名だ。

その方法とは、価値ある少数の銘柄に投資しその成長をじっくりと待つ、というものである。これにより、バークシャー・ハサウェイは市場から捨てられている小さな会社ではなく、コカ・コーラなどの世界的な企業に投資するようになったという。

そんなマンガーは独自の投資哲学を築き上げたことでも有名だ。マンガーはそのような哲学を独学の読書により身につけた。彼は何度も、自分は大学で経済も心理学も学んだことはないと断っている。なので、マンガー自身はその知恵を「処世知」と呼んでいる。

マンガーの処世知とはいったいどんなものなのか。

それは人々を動かすメンタルモデルであり、その内容はこの本の講演11「誤判断の心理学」に詳しく書いてある。この25項目にわたるメンタルモデルを読むと、1980年代以降の行動心理学や進化心理学の内容が多く盛り込まれているのがわかる。ということは、マンガーがそれを学んだのは60から70代のころだということになる。この年齢で新しい心理学を熱心に学んでいたのだ。

このメンタルモデルが幾重にも重なると、「ロラパルーザ級」の効果を発揮するという。これはいくつかの心理的傾向が合わさって、極端な結果を生み出すことで、良い意味にも悪い意味にも使える。ロラパルーザ級の現象について、学術的によく研究されていないことをマンガーは非常に不満に思っている。

ロラパルーザ級の例として挙げているのが「公開オークション」だ。

人が高い価格をつけているのを見てこれは価値が高いものに違いないと思い込み(社会的証明 )、一度始めると後に引けなくなり(一貫性の欠如を敬遠 )、相手に奪われたくないという対抗心が燃え上がり(羨望・嫉妬 )、自分ならこれだけ払っても大丈夫と思い込み(過大な自己評価)、結局ばかばかしい高値が支払われることになる。もちろん、これは悪い例で、公開オークションには絶対に参加してはいけないそうだ。

このように人間の心理を研究しているマンガーは、現在の経済学には全く不満だ。特に、完全に合理的な個人とか、効率的な市場とか、ありえない仮定の下に組み立てられていて、まったく役に立たないという。

こういう処世知を駆使して投資をしてきたマンガーの尊敬する人物というのは、やはり独学でいろいろな業績をあげたベンジャミン・フランクリンだ。これはまったく理解できる。二人はよく似ているからだ。ちなみに、マンガーは伝記の愛好家なんだそうで、気になる人の伝記はよく読んでいたのだという。

わしが、この本に述べられている個人的に感銘を受けたエピソードは、マンガーがハリスの「子育ての大誤解(1998年)」に大感激して、ハーバード大学に、今からでも博士号をハリスに送るべきだという手紙を送ったことがある、というものかな。1998年というと、マンガー74歳だ。わしもハリスの本には感銘を受けたので、これは素晴らしいことだなあと思った。

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***メモ***
マンガーの25のメンタルモデル。
1  報酬や罰に強く反応する傾向
2  好意/愛情の傾向
3  嫌悪/憎悪の傾向
4  疑念を回避する傾向
5  一貫性の欠如を回避する傾向
6  好奇心の傾向
7  カント式の公正さを求める傾向
8  羨望/嫉妬の傾向
9  返報性の傾向
10 仔細な関連性に影響される傾向
11 純粋に苦痛を避けるための心理的否認
12 課題に自己評価する傾向
13 過度に楽観視する傾向
14 剥奪されたことに過剰反応する傾向
15 社会的証明の傾向
16 コントラストに誤反応する傾向
17 ストレスに影響される傾向
18 利用しやすいものを誤って重視する傾向
19 使わないとダメになる傾向
20 薬物の悪影響を受ける傾向
21 老化の悪影響を受ける傾向
22 権威者から不適切な影響を受ける傾向
23 たわごとを言う傾向
24 理由を尊重する傾向
25 ロラパルーザ傾向:ある特定の状況をもたらしやすくする複数の心理的効果が合わさって極端な結果を引き起こす傾向

★★★★☆

HACK

橘玲 幻冬舎 2025.10.20
読書日:2026.4.9

(ネタバレあり。注意)

世の中の仕組みを理解してうまく利用して最適化するHACKという生き方を推奨する橘玲が、暗号通貨、グローバル経済・金融、ノマド、宗教、国際犯罪、国家などという現代文明を構成する内容でまとめた、12年ぶりの小説。

コンピュータテクノロジーに詳しく、暗号通貨を利用して、タイのバンコクや香港などで物質的には豊かに生きる樹生(たつき)が主人公だ。タイに住んでいるのは日本での居住実態を作らず所得税を免れながら、税務当局の追求期間の7年がすぎるのを待っているためだ。追求をかわすために、中華食堂の上に部屋を借りている振りをして、実際には高級コンドミニアムに暮らすという、ちょっとばかばかしい小細工まで駆使している。

まさしく現行法のHACKに成功して、人生を謳歌しているような人物だ。賢くスマートな人物だから、大麻を少々やるくらいで、女、酒、ギャンブルという身を持ち崩す定番のことには手を出さない。世の中で普通に暮らしに生きづらさを感じながら成長し、たまたまHACKに成功したという認識なので、そういうことには興味がないのだ。いまのところは、だが。

外国で暮らしている、そんな樹生が陥っている病が、ある種の虚無感であり、退屈さだ。

そんな樹生のところにいろいろなバックグラウンドを背負った人物や権力側の人間が集まってくる。

大麻を通しては、20年以上タイに住みつきタイの経済成長に取り残された沈没男(ちんぼつおとこ)と正体不明のハッカーHALとつながっており、またヤクザ出身で日本にいられなくなった黒木とも繋がっている。黒木のもとには咲桜(さら)という元アイドルだが不倫事件を起こして日本を抜け出した女性もいる。樹生は咲桜の元ファンなので、心穏やかではない。樹生と咲桜はお互いが自分と似ていると感じていて、惹かれ合う。

そんな樹生のところに、日本の公安関係の人物が近づく。公安にも組織的な縦割りでいろんな動機があり、佐藤の目的は特殊な国際犯罪の摘発に協力してほしいということだ。犯罪集団はビットコインで資産を持っているので、それを法定通貨に換金する必要がある。換金したお金を取りに来るところを捕まえる作戦なので、無事に換金させる必要があり、それに協力してほしいという。もうひとつ、別の公安組織の榊原の目的は、北朝鮮から500億円を取り返してほしいなどと言っているが、本当の目的は分からない。

咲桜からは、日本にいる母親がどうなっているのか調べてほしいと頼まれる。国際犯罪の摘発に協力しながら調べると、サリンを撒いた宗教集団の子供だったということがわかり、彼女の過酷な子供自体が明らかになる。

一方、黒木のところにいたソニョンという男は北朝鮮人の特殊部隊の人間だということが分かる。こちらの人生も過酷だ。ソニョンは北朝鮮のハッキング部隊ラザロスの2500億円のビットコインがはいったデータを盗んで、脱北しようとしている。樹生と咲桜、さらに謎のハッカーHALがそれに協力する、という展開になる。

このようにいろいろな事件が起こるが、全てが終わると、結局、樹生はすべての人との関係が途切れ、またひとり東南アジアのどこかで一人で暮らすという状態に戻るのである。

正直に言って、この小説はあまり面白くない。グローバル経済や暗号通貨のみならず、オウム真理教や北朝鮮の特殊部隊の話やら、いろいろな話が絡みすぎていて焦点がぼやけすぎている。しかもどの話も悲惨だし。

そしてなにより、HACKに成功している樹生自身がちっとも幸せそうではない。それだけでなく、この作品に出てくる人物はほぼ全員が幸せそうではまったくない。これではHACKしてもしょうがないんじゃないかと、いう気にさえさせる。

これはたぶん誰もが本当の自由ではないからなのではないか。樹生は日本の社会に馴染めず、リバタリアン的な自由に憧れているが、HACKして手に入れたはずの自由は本当の自由ではないのである。

彼が行っているのは、果てしない逃亡生活である。行き着くところはどこにもない。社会の隙間でしか生存できず、非常に限られたところにしか生存できない。これでは虚無感は払拭できない。

それは世界最高のハッカーらしい、HALでもそうだ。ゼロデイ攻撃を可能にするバグのコレクションを持っているのに関わらず、というかそれだからこそ世界中から狙われて、まったく自由ではない。もっとも彼はそのことに不満はないのかもしれない。

リバタリアン的な自由を実装するために作られたはずのビットコインがそれを象徴しているように思える。ビットコイン自体が、まったく自由でないことが、この小説では何度でも語られる。ビットコインは法定通貨に換金しないとどうしようもない存在なのだ。

結局、リバタリアンが憧れるような、リバタリアン的自由は存在しないのではないか。たぶん自由とは、社会から認められ、社会的に実装されて初めて本物になるようなものなのだ。そのようにしか存在できないと思う。自由とは社会的なものなのだ。個人的にはかなり残念なのだが、それが真実だと思う。

さて、現実の世界のニュースでは、どうやら暗号資産は金融資産と認められて、今後は税率は20%になるもようです。

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そうすると、この小説の前提である、樹生が日本を脱出した理由のひとつがなくなってしまうわけです。このニュースの半年前に出版した橘玲氏は幸運なのでしょうか。しかし、それを見越して出版の時期を決めたのだとすると、これこそ素晴らしいHACKなのでしょうか(笑)。

★★★☆☆

成瀬は信じた道をいく

宮島未奈 新潮社 2024.1.25
読書日:2026.4.1

(ネタバレあり。注意)

常に周りの斜め上をゆく目標を掲げて目標達成に邁進する、アスペルガーチックな成瀬あかりが、今回も周りを巻き込みながら自分の道を行く様子を、周囲の人の視点から描く、大ヒットシリーズ第2段。

まあ、楽しく読ませて頂き、そしてすぐに読み終わってしまったのですが、読みながら気になったのは、このシリーズは主人公の成瀬が社会人になったとしても成り立つのだろうか、という点ですね。

今回は高校3年の終わりから、京大受験、そして京大に受かってから1年生の大晦日までなのですね。

そして今回、成瀬が掲げた目標が、暇な時間に行っている巡回パトロール(アンパンマンか?)、京大受験、合格後バイト先の万引き犯捕獲、琵琶湖大津観光大使としてできるだけ大津市を宣伝すること、紅白歌合戦に出場すること、なわけです。

裏の目標としては、200歳まで生きるという目標は相変わらずあって、不健康なことは絶対にしない、安全第一、ということもあるわけです。

でも、こんな成瀬のキャラが際立って見えるのは、学校というシステムの中にいるからなのですよね。そりゃあ、中学、高校のころに成瀬のような人がいたら、目立つだろうし、へんてこりんな目標に邁進していても、それなりに成果をあげていると、すごいと思うでしょう。しかしこれはある意味、平均に集まろうとして、外れ値にはなりたくないという、学生という集団と比較してということであって、そういう場合にしか成り立たない物語なんじゃないかっていう気がするんですね。

これが学校を卒業してですね、社会人になった途端、なにか他の人と違ったことをしようという人は、実際、膨大な数が出てくるわけです。まあ、たぶん、成瀬の場合は、地元の大津市にこだわるんでしょうけど、たとえば西武百貨店を復活させる事業とかですね、そういう風になるのかもしれませんが、しかし、それがそんなに目立つかなあ、と言う気がするんですね。学生のときになんでそんなことをやってるんだと笑えるみたいなところが、社会人になっても出せるんだろうか、という気がしてくるわけです。

もしそれができたらすごいな、と思うわけなので、注視しようと思っていたんですが、なんと、次の「成瀬は都を駆け抜ける」で完結なんですって。さっき知りました(苦笑)。じゃあ、やっぱり学生時代で物語は終わってしまうのか。

まあ、ここまで読んだので、最後まで読もうと思うのですが、またまた膨大な予約が入っているので、いちおう予約はしましたが、また半年後ぐらいになるんじゃないですかね。(買う気にはならないので)

社会人になっても成瀬みたいな話が成り立つのか気になるから、完結編のあとにも外伝とか後日談とかみたいに、宮島未奈さんにはちょっと試してほしいな。そしてそれでも、成瀬あかりはインパクトを与えられるのか、気になるな。

社会人だと、横道世之介みたいに、本人は普通に生きているだけなんだけど、なぜか周りに影響を与えてしまう、という話じゃないと難しいような気がするんだよね。

★★★★☆

 

日本人の9割が知らない遺伝の真実

安藤寿康 SBクリエイティブ 2016.12.15
読書日:2026.3.30

知能(IQ)は遺伝の要素が大きく、環境の影響は小さいという身も蓋もない事実を明らかにして、IQにこだわらずそれぞれの遺伝子の能力を活かすような教育が必要と主張する本。

この本は、著者の研究が引用されている橘玲の「言ってはいけない 残酷すぎる真実」がベストセラーになったので、話題になっているうちにと、緊急出版されたものなんだそうだ。著者は曲がりなりにも世の中に研究内容を発信してきたのに、一人のベストセラー作家との発信力の差を見せつけられた形になったが、素直に橘玲に感謝している。

で、問題になった残酷な内容というのは、IQは遺伝の影響が54%と圧倒的で、共有環境(家庭や学校など)の影響はたった19%しかなく、さらに環境と関係ない内容不明で偶然的な非共有環境が27%と、というものだ。

これを単純に考えると、親や教師の教育の影響はほとんどなく、いい学校に進学しても、高額な塾などに通わせても、あまり効果がないということになるので衝撃的だったのだ。

それだけではない。収入に対する遺伝子の影響も圧倒的なのだ。社会人になったばかりの頃は、いい家庭の子供は確かに良いところに就職できて収入も大きいが、年齢が増えるに従ってその影響はだんだん減ってきて、30代で遺伝の影響が環境の影響を逆転し、40代では育った家庭の優位性がまったくなくなってしまうのだそうだ。これは本人の努力とまったく無関係に、ほぼ遺伝で生涯年収が決まってしまうというわけで、非常に残酷な結果だと言える。

面白いのは、ほぼ遺伝子で決まるため、一卵性双生児で二人が異なる家庭に育てられて、異なる学校を出て、異なる職業についても、結局、同じような収入になるんだそうだ。これはすごいを通り越して呆れてしまうくらいだ。

では教育の効果はないのだろうか。

ここでさらに残酷なのは、すべての人に教育が行き渡ると、教育の効果が大きい人と効果がない人の差が大きくなり、格差がさらに拡大してしまうことだ。効果が大きいか小さいかは、もちろん遺伝の影響なので、教育は遺伝子の格差をさらに広げるように働いてしまうのだ。

というわけで、遺伝子でほとんど決まってしまうとすると、いったい努力とはなんだろうか、という気になってしまう。

しかし、収入や世俗的な成功はあったほうがいいかもしれないが、幸福な人生とはあまり関係がないと安藤さんは言う。幸福な人生とは、自分の遺伝子にある能力を開花させることなのだ。

そういうわけで、将来の教育の役割は、人それぞれに自分にあった道を悟らせる、というものになるかもしれないという。そして、それは必ずしも収入を伴わないかもしれないので、そこは社会的に保証するなどして、幸福を実現する社会を作るのがいいという。

具体的にはベーシックインカムのような制度を考えているが、ベーシックインカムにはフリーライドを招くという批判がある。しかし著者の安藤さんはこの点には楽観的で、人間は基本的にじっとしていられない生き物で、なにもしないということはありえないのだそうだ。何かをすれば、きっと自分の遺伝子の才能を開花させる方向に行くだろう。

しかし、そんな幸福を実現するような社会が本当に誕生するのだろうか。

個人的には、将来は、食料、住居、教育が無料化する方向だと思っていますので、そのような社会が来ると、わしは思っています。

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** 遺伝子と環境の影響を計算する方法 **
わしが一番興味を持ったのは、遺伝子と環境の影響をどのように把握するかという問題だ。
ここにその計算方法をメモで残すことにする。
(1)一卵性双生児と二卵性双生児をサンプルに選び、両者のIQテストをして、相関関数を求める。すると、たとえば一卵性双生児は0.73、二卵性双生児は0.46という数値を得る。
(2)環境に影響されない成分(非共有環境)は、一卵性双生児の一致しない成分から得る。なぜなら一卵性双生児は遺伝子も環境も同じなのに、似ていない部分が出るのは純粋に環境に依存しない部分だと言えるからだ。計算は1から相関係数を引く。
   1−0.73=0.27 (非共有環境)
(3)相関関数のうち、どのくらいが遺伝子の影響でどのくらいが環境の影響かは、次のように計算する。遺伝子の一致は、一卵性双生児の場合はすべて一致しているから1とする。二卵性双生児の場合は一致している遺伝子は全体の半分だから0.5とする。また、どちらも双子だから環境から受ける影響はおなじとする。遺伝子の影響をx、環境の影響をyとすると、
   x+y=0.73 (一卵性双生児)
   0.5x+y=0.46 (二卵性双生児)
となる。この連立方程式を解き、x=0.54、y=0.19 を得る。
 結論として 遺伝子の影響54%、環境の影響(共有環境)19%、環境以外の影響(非共有環境)27%となる。

★★★★☆

倫理の説明に「道徳的事実」は必要ない 「倫理資本主義の時代」を読んで考えたこと

マルクス・ガブリエルの「倫理資本主義の時代」を読んで一番びっくりしたのが「道徳的事実」という概念だった。

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マルクス・ガブリエルは、たとえば「溺れている子供は助けなくてはいけない」などのような道徳的事実は、まったく人間とは関係なく存在しているというのである。そして人間はヒューリスティックスという機能でそれを感知し、実行しているというのだ。

このように道徳的事実は人間に関係なく存在しているので、人種や性別や宗教などに無関係に全人類に共通している、と主張しているのだ。道徳的事実は、倫理の普遍性の根拠に使われているわけだ。

わしがこれまで新実存主義を評価していたのは、ユニコーンのような幻想すらも存在していると明言していたからで、わしは、これは個人ごとに異なってよいという、相対主義を含んだ実在論を展開していると思ったのだ。

しかし、そうではないのである。新実在論は、意味の場は無数に人間と関係なく実在しており、ユニコーンの意味の場もその一つであり、ユニコーンについて考えている人は、ユニコーンの意味の場を感知して、ユニコーンのことを考えているということになる。

こう考えると、新実在論は、わしが思っていたような人それぞれという相対主義のものではなく、誰に対しても絶対的に実在している、ということになる。

このような、ある概念が人間という存在とまったく無関係に存在している、という考え方は、実は新しいものではない。プラトンのイデア論がそうだ。

プラトンは、美とか善とかの概念はイデアとして存在し、人間は理性でそのイデアを感じるのだと主張している。イデアは人間のいる世界を超越した、別のどこかに実在している。

つまりマルクス・ガブリエルの新実在論は、プラトンのイデア論への先祖返り、あるいはそのアップデート版という理解が正しいようだ。

このように、ある概念が人間と無関係に実在する、という話はちょっと信じがたいかもしれない。しかし、このような場合にしばしば持ち出されるのが数学である。

数学の定理は数学者が日々発見しているが、このような定理は人間が考えたから存在しているのではなく、もともと存在していたものを人間が発見していると考えるのが普通である。たとえば「三角形の内角の和は180度になる」ことは、それが発見される前から存在していた事実なのである。だから、人間と無関係に存在している概念的な事実は確かにある。

しかし、倫理的な道徳的事実が、数学の定理と同じような感じで事実として存在しているというのは、かなり無理があるのではないだろうか。

基本的な倫理、たとえば「溺れている子供がいたら助けなければいけない」というのは、確かにそうとうな割合で人類全体が共通して持っているように思われる。しかし、だからといって、数学的事実と同じように道徳的事実は存在している、と言われるとちょっと首をかしげるのではないだろうか。

では、普通の現代人は、このことをどのように理解するのだろうか。

おそらく「ダーウィンの進化論」で理解するのではないだろうか。少なくとも、わしはそうだ。

人類の脳には、社会脳といわれる構成が組み込まれていると言われ、お互いに協力し合うように生物学的に進化してきた。基本的な倫理もそのような長い人類の進化の果てに誕生したと考えるのが普通ではないだろうか。つまり基本的な倫理は、脳の中に遺伝的に組み込まれている、と考える。

おそらく進化の過程では、いろんな行動や考え方が試されたのだろう。そのなかでもっともうまくいった方法が今も生き残っているというだけなのだ。「溺れている子供がいたら助けなければいけない」という倫理は、「子供の命は守らなければいけない」という考えが脳に刻まれているから、と考えるのが普通ではないだろうか。

「しっぺ返し戦略」という人間がほぼ普遍的にもっている、信頼関係を構築するための戦略がある。これは知らない人に出会ったとき、まずその人のことを信頼する、なにか損害を受けるようなことをされたら同じだけやり返す、そして相手がやり方を改めたら過去のことは忘れる、という戦略だ。これが最もシンプルでうまくいくことは行動心理学の実験で分かっている。そして人間がこの方法を普遍的にとっていることから、人間の脳に遺伝的に組み込まれているのだということがかなりの程度で確信できる。

ここで大事なのは実験できるということだ。行動心理学的にも実験できるし、脳科学の技術進歩から、脳がどのように倫理的な問題を扱っているのかも、これからもっと詳しく分かってくるだろう。

つまり、この進化論的な発想では、道徳的事実という、人間と無関係なところに存在しているという概念を使う必要はない。道徳的事実はそもそも人間の脳の中に生物的に組み込まれているのだから。

新実在論のように発想してしまうと、道徳的事実が、まるで数学の公理のように、議論の出発点になってしまっている。すると、それ以上の掘り下げようができなくなってしまうのだ。マルクス・ガブリエルに、なぜ道徳的事実があるのかと訊いても、そういう意味の場があるのだ、それが議論のスタートなのだ、としか答えようがないだろう。

新実在論は観測によらないという意味で観念論的とも言えるし、一方の進化論は実験と観測が可能だから唯物論的と言えるかもしれない。どっちが正しいかという議論は無意味で、どっちが納得できるかというだけの話なのかもしれない。

で、あなたとしては、新実在論と進化論のどっちの説明が納得できますか? 

倫理資本主義の時代

マルクス・ガブリエル 監修・斎藤幸平 訳・土方奈美 早川書房 2024.6.20
読書日:2026.3.23

「なぜ世界は存在しないのか」という本で「新実在論」を示し、スター哲学者になったマルクス・ガブリエルが、新実在論の立場から倫理を語り、新自由主義的な資本主義は間違いで、そもそも資本主義は倫理的な発想から生まれたのだから、倫理をもう一度資本主義と結合しなくてはいけない、と主張する本。

資本主義と倫理に関して、少し前、そもそも資本主義は悪だが、ジョン・ローズの正義論を使って、悪だけれども正義といえる制度を作ることはできる、という本を読んだ。

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しかし、そもそも資本主義が悪だと決めつけずに、もうちょっとマシな意見はないものだろうか、という思いで、この本を手に取ったのである。マルクス・ガブリエルは資本主義のことを悪と決めつけていないので、好ましい。それどころか短絡的に資本主義を悪と決めつける風潮に反対している。非常に好ましいと言える(笑)。

しかし、そもそも人間はどうやって、倫理について、これはいけないとか、これは善だとかという判断ができるのだろうか。この点について、マルクス・ガブリエルは実に不思議なことを言い出すのである。

「溺れている子供は救わなくてはいけない」「人に向けてミサイルを打ってはいけない」「奴隷制は邪悪だ」「女性蔑視はいけない」

こういったことは「道徳的事実」なんだそうだ。そして、こうした事実は倫理に関する意味の場において、「実在している」、というのである。

これがどういう意味か分かるだろうか? そしてどこが不思議か分かるだろうか?

マルクス・ガブリエルは、こうした道徳的事実は、人間がそう考えたから存在しているのではない、と言っているのだ。人間とは無関係に、そのような事実として最初から存在している、実在しているというのである。マルクス・ガブリエルのいうとおりなら、それは人類が存在する前から、そして人類が絶滅したあとも意味として実在しているはずだ。

そして人間には「ヒューリスティックス」という機能があり、そのヒューリスティックスを使って、この道徳的事実にアクセスして、道徳的に何が正しいかが分かるというのである。ある意味、人間はヒューリスティックスを使って、道徳的事実を発見しているのである。

だから、倫理は、人種や性別や宗教や文化を越えた人類共通のものだというのがマルクス・ガブリエルの主張だ。溺れた子供を見つけたら、「溺れている子供は救わなくてはいけない」という道徳的事実をすぐにヒューリスティックスで発見して、あらゆる人間は、何を差し置いても子供を助けようとするのだという。(なお、道徳的事実は、〜すべきでない、〜しろ、などといった単純な命令形で存在するのだそうだ(=カントの定言命法)。またヒューリスティックスとは、普通、行動心理学では直観によるショートカットした判断のことを指す)。

これは実に不思議な議論である。ここに至って、わしは自分の「新実在論」の理解が間違っていたことに気がついたのである。

マルクス・ガブリエルは、「なぜ世界は存在しないのか」で、ユニコーンのような空想の生物も実在すると言っている。わしはこのことを、人間がユニコーンを空想しているという意味で存在している、と理解していた。

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しかし、そうではないようである。マルクス・ガブリエルは、人間がユニコーンを空想していようがいまいが、さらにいうと、人間が絶滅していなくなったとしても、ユニコーンは意味として実在している、と言っているのである。意味の場は人間と無関係に無限に存在しており、人間はたまたまその意味の場に訪れたとき、その意味を理解するようだ。それは森の中の木が倒れたとき、それを誰も見ていなくても事実として存在している、というようなものなのだ。

新実在論を使って倫理を考えるということはこういうことなのか、と、かなり驚きを覚えたのであるが、まあ、不思議なのはこの辺だけで、それ以降はそんなに不思議ではない。

道徳的事実がこんなに明快なのなら、なぜ現代では倫理がこんなに問題になっているのだろうか。それは、この世界の関係は複雑な「入れ子構造」になっていて、ある道徳と別の道徳がぶつかり合ってしまうからだ。ある部分である道徳を増やすと、それが波及した別の部分で別の道徳を減らしてしまうということが起きるのである。

このような複雑な世界の倫理を考えるには、歴史学、経済学、社会学などの人文科学に通じた専門家が必要なのだという。特にこれに向いているのは、マルクス・ガブリエルによれば、哲学者なんだそうだ。ちょっと自画自賛っぽいけど、まあ、そうなのかもしれない。

そして、この社会がよくないのはなぜか、という問いに対して、多くの人が脊髄反射的に「資本主義が悪いから」というふうに答えてしまう。しかし、よく知られているように、これまで共産主義を実行してうまくいった例はないのである。

これがなぜかと考えると、マルクスの唯物史観が間違っているから、ということになるのだという。マルクスは経済が下部構造として土台にあって、その上に文化という上部構造があるというふうに考えた。

しかし実際にはそれは逆なのだという。資本主義ではまず倫理があり、倫理に最も合う社会構造として資本主義を構築しているというのだ。それが証拠に世界最初の経済学者と呼ばれるアダム・スミスは、もともとは「道徳感情論」という本で道徳を考えてから「国富論」を出版している。つまり、倫理と社会という大きな世界があって、その中の一部に資本主義があるのだ。

そして資本主義にとって最も重要な価値観は「自由」だ。資本主義が成立するには、所有の自由とか契約の自由とかの自由が必要なのだ。しかしこの自由はなにもないところに成立しているのではない。実際には社会が、もっと具体的には国がその自由を保証しており、法律が守っているから成立している。だから自由とはもともと社会的なものだという。なんでもやっていいというレッセフェール的な自由はそもそも存在しない。すべての自由とは最初から「社会的自由」なのだ。

ところが、ハイエクやフリードマンの新自由主義は、経済活動を自由にすればするほど社会が良くなる、というあべこべの発想をしており、これはそもそも順番が間違っているのだという。正しい順番はまず倫理をアップデートして、新しい啓蒙を構築して、それに基づいて経済活動を行うことだというのである。新しい啓蒙とは、例えば環境に配慮したエコ・ソーシャル・リベラリズムなのだという。

倫理的に正しいことは、経営的にも正しいという。同じサービスをしていても、倫理的に正しい企業の方が、儲かればいいという企業を結局は淘汰していくだろう、というのである。

具体的にどうすればいいのだろうか。マルクス・ガブリエルは、企業の中に倫理問題を担当するCPO:Chief Philosophy Officerを導入するべきだと言っている。さらに倫理専用の部署を作るべきだと言っている。

また社会全体の課題としては、子供に選挙権を与えるべきだと言っている。

でも、これらの主張は新実在論の道徳的事実を持ち出さなくても言えるような気がする。それならば、マルクス・ガブリエルが倫理において自らのお家芸である新実在論を持ち出すことにどんな意味があるのだろうか?

それは道徳的事実は人間と切り離されていなければいけない、と言いたいのだろう。つまり、人によって解釈が違うとか、文化的な差によって相対化されては困るということなのだ。それは、絶対的な正解だということにしたい、そのために道徳的事実は人間と切り離された事実である、といいたいのだろう。人間と切り離されているからこそ、誰にもそれは否定できない、絶対に正しいもの、と言えるのである。

このような主張をあなたは信じるでしょうか? わしはちょっと納得しかねる部分が正直に言ってある。わしは、絶対に正しい、という主張には脊髄反射的に疑いを持ってしまうタイプなので(笑)。

*** AIの倫理 ***
おまけとしては、AIの倫理についても語っていて、まずAIは人間が設計した範囲であること(=ブラックボックス化して人間が判断できないようになってはいけない)、AIはそれ自体としてインテリジェントであってはならない(=人間が課題を与えなければインテリジェントではない、つまり自律してはいけない)、と主張している。結局、AIは制限されなければいけないということのようだ。

★★★★☆

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