ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

米海軍特殊部隊(ネイビー・シールズ) 伝説の指揮官に学ぶ 究極のリーダーシップ

ジョッコ・ウィリンクス リーフ・バビン 訳・長澤あかね CCCメディアハウス 2021.7.27
読書日:2023.4.11

イラク戦争ネイビー・シールズを指揮したジョッコが、リーダーシップとは究極の責任感を持つことで、究極の責任感とは作戦に関係するすべてのことに責任を持つことだ、と主張する本。

ジョッコ・ウィリンクスのことは、「巨神のツール 俺の生存戦略 知性編」で知った。よく分からんがとても人気のある人らしい。ポッドキャストが人気で、ジョッコの言葉だったらいくら聴いても飽きない、という人がいっぱいいるらしい。

読み始めて、最初は「究極の責任感ねえ」と斜に構えていたが、だんだんこれはすごいことかもしれないと思い始めた。

ともかくリーダーの使命は作戦を成功させることで、そのためには何でもするし、どんなことが起きても全て自分の責任だと言えないといけないのだ。部下からみれば、このくらい安心できる上官はいないだろう。何が起きても自分が責められることはないと確信できる。このような人の下につくと、自分も自分の責任範囲については部下に責任を押し付けるようなことはしなくなり、自然と「俺の責任です」という言葉が出てくる。素晴らしい。

そしてなにかミスや不具合が発生したときに、自分の間違いを認める上官を、部下は見捨てることはけっしてないという。間違いを認めることは、最大の勇気を示すことなのだ。そうしてこそ、次は失敗しないために何をすべきかという課題に取り組めるという。

このようになるためには、エゴは絶対にだめなのだという。謙虚であることが絶対条件になる。

部下に対してだけではない。上官に対してもリーダーは究極の責任を持たなくてはいけない。ジョッコのような現場のリーダーに対して、遠く離れた司令部の上官は現場のことがわからず現場の兵士が怒るような指示を与えたりする。よくドラマなどで問題になる現場と上層部の乖離だが、遠くの司令部とつなぐこと、これもリーダーの責任の範囲なのだという。米軍はひとつひとつの作戦に膨大な書類仕事をともなうのだが、そんなものを提出しなくてはいけないのは、司令部が現場がわからないから、確認しようとしているだけなのだという。司令部はこちらを助けようとしているのだが、わからないから確認しているのだ。ジョッコの部隊、ブルーザーは完璧にその書類を提出したのだそうだ。そうするうちに現場の理解が進んで、ブルーザー部隊は信頼を得て、どんどん仕事がやりやすくなったという。

作戦を成功させるためには、上官が全てを支持するのではなく、個々の兵士が自分で判断して動けなくてはいけない。そのためには、何のためにこの作戦をしているのかという理由を説明できなくてはいけないという。作戦の理由がわかっていれば、不可抗力的な状況が起きても部下は判断できるし、そうなれば部下を信頼して任せることができる。作戦もシンプルにできるのだ。そして何が大切かわかっていれば、優先順位もつけやすく、今何をしなければいけないかもわかりやすい。

上だけではない。横との関係もリーダーの仕事の仕事の重要な仕事だ。そうすると、お互いにカバーしあって、作戦がうまくいく可能性が高まる。もちろん、内部でもお互いにカバーし合うことは必須だ。

そして自信を持って作戦を行うには、入念なリハーサルが欠かせないという。それは作戦の先頭部分だけではなくて、単純なトラックから荷物を下ろすという作業一つすらリハーサルをするという。このような単純作業を早く確実にできるほどリスクが減るからだ。どんな簡単なことでも練習をするのだ。

などということが、書かれてあって、究極の責任感というのはなんとも多岐にわたるのである。いちおうビジネス書の体裁を取っていて、これらがビジネスのどのような状況に当たるのかが例が書かれてあるので、ビジネスの状況に応用することも可能だ。とくに中間管理職に向いている内容に思える。

まあ、わしは組織のリーダーシップには向いていないと自分でも思っているので、このようなことはしたくはないが、しかし、少なくとも自分の人生に対してはリーダーシップは取りたいと思っている。自分の人生のリーダーシップにもこういうのは役に立つよね。自分の人生のリーダーシップって、そんな概念はないかもですが(笑)。

気になって、ジョッコの動画を見てみたが、「いつやるんだ、いまやれ」みたいな短い言葉の動画がたくさんあって、すでに自己啓発の扇動家みたいな感じになっていて、なんかちょっと違うような気もしたが(苦笑)、少なくともこの本はとてもいいと思います。

★★★★☆

怠惰への讃歌

バートランド・ラッセル 訳・堀秀彦、柿村峻 平凡社 2009.8.10
読書日:2023.4.7

人類の生産性はすでに十分高いから、一日の労働時間は4時間で十分で、余った時間を有効に使えば豊かで幸福な人生を送れると主張する本。

まあ、実質1日2時間ほどしか働いていなかったわしとしては、この発想には全面的に賛成である。残念ながらいまはかなり働いている。昔はアイディアがいちばん重要な仕事だったが、いまやっている仕事はそれなりに誰でもできる仕事になってしまったので、そんなに怠けるわけには行かなくなってしまった。非常に残念である。たぶん1日4時間は働いている。ラッセルの主張する時間になったというわけだ。

最近、在宅勤務が多くなったせいで働いている時間が明確にカウントされるようになった。上司との会談があって、「わたしは1日中働いているわけではありませんよ」と正直に言ったら、「知ってますよ」と返された。「パソコンが稼働している時間を見ていますから」という。「目標さえ達成してくれれば、自分のペースで仕事をしていただいてかまいません」。できた上司でよかった(笑)。

最近、「週4時間だけ働く」という本を読んだが、実際そのくらいまで短縮できるのではないだろうか。わしは日本人のほとんどは、1日の半分をまともに働いていないのではないか(もしくは、無駄に忙しそうにしている)のではないかと思っている。きっと日本はブルシット・ジョブ大国だ。

この本は1935年に発表されている。日本で柿村氏により翻訳出版されたのは1958年のことである。1930年にはケインズによって、似たような発想のエッセイが発表されていて、100年後には人は仕事をしていないかもしれない、と言っている。

というわけで、このような議論がなされてから90年ぐらい経っているわけで、なぜそれが実現されないのだろうか。

たぶんラッセルの言う、「労働を徳と考え、怠惰を罪と考える」風潮が未だに幅を利かせているからだろう。これは国が国民を働かせたいと思ってそう教育しているだけで、根拠がないと思う。

いま、国の方で、国家公務員を週休3日制にしようという議論が進んでいる。ぜひ、そうしてほしい。週休3日にしても、きっとほとんど問題はないはずだ。週に3日休みならば、たいていの人はなにか新しいことを始めるだろう。まあ、副業をはじめて、やっぱり働いているのかもしれないが、それならばそれでもいい。

これ以外にも、ラッセルが雑誌等で発表した文章がまとめられているわけだが、ラッセルの文章は平易かつ非常に明解で、とても好ましい。このような文章が雑誌の記事として載っているだなんて、当時のイギリス民衆はむちゃくちゃ教養が高かったのだろうか。

とくに、ファシズムを産んだドイツの哲学について、極めて平易な言葉で解説しているものがあって、あまりのわかりやすさに驚いてしまった。それによると、1930年代当時のドイツのファシズムを産んだ源流は、カントの実践理性批判にあるのだという。カントは理性を純粋理性と実践理性に分けることを考えて、実践理性の方は道徳倫理に関係するから、偏見が含まれており、それがフィヒテに影響を与えたというのだ。

まさかカントに源流があるとは、びっくり。わしは純粋理性批判は読んだことがあるが、実践理性の方は読んでいない。読まなくてはいけないのだろうか?

**** メモ ****
各章の要約
第1章 怠惰への讃歌(上述)

第2章 「無用」の知識
 実学や科学などの「有用」な技術がまん延しているが、「無用」の知識は人生の苦しみを和らげ、大きな立場から見る知識を与えてくれる。

第3章 建築と社会問題
 建築に公共的要素を取り入れて、共同で家事や子供の養育を行うようにして、女性を家事労働から開放しようと主張。

第4章 現代版マイダス王
 財政的な知識を分かっている者が少なくて、むちゃくちゃな財政が行われているという。特にドイツに対する(第1次世界大戦の)賠償金とそれに対する対応について痛烈に批判。財政などのマクロ経済が理解されないことは、現代でも同じ。

第5章 ファシズム由来
 ドイツの観念論がどのように(1930年代当時の)ファシズムに繋がっているのかを分かりやすく解説。

第6章 前門の虎、後門の狼 共産主義ファシズム
 共産主義ファシズムのどちらにも反対。理由はどちらにも人の自由を捻じ曲げ、民主主義がないから。

第7章 社会主義の問題
 社会主義的な政策は賛成だが、革命によるのではなくて、民主主義の説得による方法で行わなければならない、と主張。

第8章 西洋文明
 西洋文明の特徴を述べているけど、残虐性について述べている部分が興味深い。

第9章 青年の冷笑
 1930年代、当時の青年が冷笑的な理由は、宗教、国家、進歩、美、真理のどれも信じられないから、だとか。ふーん。

第10章 一本調子の時代
 世界が画一化して、逆に個性を強調するようになったのだとか。でも、それで問題ないってさ。

第11章 人間対昆虫
 このままでは昆虫が生き残って勝利者になるかもしれないって。そりゃ、どう考えても、人類が滅んでも昆虫はいるでしょう。

第12章 教育と訓練
 子供を好きなように放っておくという自由な教育には反対だそうです。教師が疲れているようでもだめとか。

第13章 克己心(ストイズム)と健全な精神
 なにか不幸があっても、それに耐えて外に目的を持つように暗示的に導けって、ふーん、としか言いようがないなあ。

第14章 彗星
 街に光が溢れて、彗星はなんの魔法の力もないって。

第15章 霊魂とはなんであるか
 科学が発達して、霊魂がないどころか物質(肉体)もないということになってきて(量子力学的な話のこと)、なんとも味気ないという話。

 

★★★★☆

生まれながらのサイボーグ 心・テクノロジー・知能の未来

アンディ・クラーク 訳・呉羽真、久木田水生、西尾香苗 春秋社 2015.7.25
読書日:2023.4.2

電子的に繋がれていなくても、人間は道具を使っているだけで肉体も精神も拡張されており、事実上のサイボーグ状態だと主張する本。

この本の原著は2003年に出版されている。それから10年以上たって翻訳出版されているわけで、この本が投げかけている問題が時間を越えた普遍性を持っているばかりか、当時出現していなかったスマホなどを持つことで、いっそうその主張が説得力を持つ状況になっている。

では、クラークの主張を見ていこう。

人間は苦手なことを道具を用いて足りない能力を補おうとする。クラークによれば、人間は「フリスビーは得意だが論理は苦手」な生き物なんだそうだ。そういうわけで、この低い論理能力を補うために道具を使う。

例えば計算だ。人間は掛け算ができるけれど、暗算でできるのはせいぜい2桁までで、それ以上は難しい。つまり人間は計算が苦手だ。その能力を補うために紙と鉛筆を使う。筆算を行うと、計算は1桁の小さな単位に分解できるので、人間の低い能力でも計算することができる。つまり、紙と鉛筆は計算機として、あるいは途中経過を記憶しておくためのメモリとして機能している。

もちろん、未来の人間がコンピュータを体内に埋め込んでいて、素早く計算できる能力を身につけることもあるかもしれない。しかし、それは紙と鉛筆を使って計算するのとなんら本質的な違いはない、とクラークは言うのである。

苦手な論理を補うことができるようになったのは、もちろん言語という他の動物にはない機能を持っているからである。とくに書くという技術を手に入れてからは、知識を蓄えて、論理を構築することが非常に簡単になった。

さらにどこまでが自分の身体かという認識は非常に曖昧なのだという。

例えば、視覚障害者は自分が使っている杖をまるで自分の身体の一部のように感じているのだという。あるいは義肢を持っている人なども、義肢を自分の身体の一部のように感じている。実際に、杖や義肢に打撃を与えると、痛いと感じるんだそうだ。その他にも、道具を使っていると道具は身体の延長のように感じるし、例えば車を運転すると身体の範囲は車全体に拡張されたように感じているという。

身体の拡張は別に身体に接していなくてもいい。自分の身体という感覚は、それが身体から離れていても拡張される。これはとても有名な例だけれど、自分の目の前の人(マネキンでも良い)の背中を撫でるときに、後ろから第3者に背中を同じタイミングで同じように撫でられると、前の人の身体は自分の身体だと脳は誤認する。(つまり幽体離脱を簡単に経験することができる)。

こんなふうに自分という存在の範囲はどこまでも拡張が可能だから、通信でつながっている遠くにいるロボットでも、自分の延長と認識することは十分可能ということになる。テレプレゼンスというこの感覚は、2003年当時は革新的な発想だったかもしれないが、いまでは当たり前の感じすらする。

このように自分というのが曖昧なのは、実は自分という存在はその場その場の便宜的なもので、まったく固定したものではないからなのだという。ここでクラークはデネットの、人間は単なる道具の集まりで、自己を担っている器官は存在しない、という説に基づいて話している。

なるほど、どうやら高名な哲学者であるデネットを読まなくてはいけないらしい。これはまだ読んだことがないからなあ。

しかし、まあ、電子的につながっていなくても、なにか道具を使っているというだけでサイボーグと同じというのは、確かに納得できるし、不思議でもなんでもない。

誰もが小さなコンピュータであるスマホを持ち歩いている現代では、なおさらそう感じるだろう。

★★★☆☆

71歳、年金5万円、あるもので工夫する楽しい節約生活

紫苑(しおん) 大和書房 2022.8.1
読書日:2023.3.29

フリーライターとしてあまりお金のことを考えずに暮らしてきた著者が、子供が独立後に年金5万円しかないのにどうやって暮らしていくか悩んだ末に、貯金をはたいて築40年の一軒家を買って、5万円で生活していく様子を書いた本。

一軒家を買う前は公団住宅で暮らしていたそうで、たしかに公団の安いところでも5万円で暮らすのは辛いかも知れない。毎月赤字で、貯金が減っていくのに悩んで、このままいつまで暮らせるのかと頭を悩ませていたそうだ。しかし、貯金をはたいたけど、住むところを確保できて、月5万円で暮らせることが分かると、ずっとやっていけるという安心感を得たという。

食事は、以前はお菓子をバカ食いするような不健康なものだったが、いまは毎食きちんと自炊して、健康で、肌艶も以前よりも良くなったそうだ。1食は200円程度で、月1万円ほどだそうだ。

作者は服もいろいろ自分でアレンジしてしまうし、美的感覚に過ぎれているのか、部屋も小綺麗にしていてその様子が写真で紹介されている。たぶん普段の生活を見ていると、とても5万円で生活しているとは信じられないだろう。いまは貯金もできているそうだ。

ブログが評判になって出版したこの本は、増刷もされていて、きっと作者のいい副収入になってるんじゃないかな。昔はお金はあるだけ使ってしまうたちだったらしいので、無駄遣いしていなければいいけど(笑)。

★★★★☆

流浪の月

(ネタバレあり注意)

凪良ゆう 東京創元社 2019.9.30
読書日:2023.3.26

男女関係ではないが、一緒にいると自由になれる二人が人生を共にするようになるまでの物語。

2020年本屋大賞受賞作で、映画化もされた作品である。帯の惹句は「愛ではない、けれどそばにいたい。」である。この言葉はとても良くできていて、実際、この言葉がそのままこの作品のテーマである。

ところで、「愛ではない、けれどそばにいたい。」というような人間関係は、考えてみればごく普通である。世の中にはすでに恋愛関係を越えてしまって、単なる同志、あるいはパパ、ママとしてだけ存在している男女はいくらでもいるのである。そういうわけで、このままでは作品にならない。

ここで作者は、小児性愛者とその被害者というタブーを持ち込むのである。しかもこの加害者、被害者の図式は世間から見たもので、当人たちにとっては違うというふうに、二重に屈折したものである。二人にとっては、世間の見方というところから離れたところで自由に暮らしたいという思いで繋がっている。

このため、主人公の更紗はもともと開放的な両親のもとで、周りの子供達とは違う感性を持っていて自由に生きているが、突然、世間体というものを気にするおばの一家に放り込まれて苦しむということになっている。普通の女の子の演技をしなくてはいけなくなる彼女の愛読書が、自由に空想を広げる少女の話である「赤毛のアン」であることが、彼女の苦しみを象徴している。

従兄弟の孝弘が彼女に性的なイタズラを毎日行っているので、更紗はおばの家には居たくない、ということになっている。このエピソードは二重の意味を持たせていて、素晴らしいと思う。なぜなら、叔母の家にいたくないという気持ちを決定的に読者に伝えるとともに、これ以降彼女は性的な関係がトラウマになってしまい、人間関係に性的な部分を持ち込むことを否定する方向になるからだ。これはもう一方の文(ふみ)との関係を、通常の男女関係ではないと読者を納得させるのに有効だ。

ふたりのうち、もう一方の文の方も、世間からみて正しいことのみを行おうという、とても窮屈な家庭に育っている、という設定だ。それで、大学に入ってから、近所の公園で自由に遊んでいる子供を見るのが好きになって、毎日通うことになっている。このへんの文の行動の説明はちょっと苦しい感じもするが、作者もそう思っているのかこの辺についてはそんなに深く語られることはない。

ちなみに、最後の方で明かされるが、文は男性ホルモンができないという異常があり、男性として肉体的に成熟できないという設定になっている。なので、文の方からも、二人の関係は肉体的、性的なものではないという説明になっているが、こちらは読者を納得させるための作者の親切で書かれているような気もする。本当は書きたくなかったんじゃないのかな。

さらに、ふたりが最初に出会ったのが更紗が小学校で9歳、文が19歳の大学生で、年齢的には10歳違いという絶妙なところに設定されている。同年代ではなく、それなりの歳の差があるので小児性愛者による少女誘拐の加害者と被害者という関係が成立し、更紗が成長したあとには恋人といっても通じ、さらには文がさほど罪にならないというなんともぎりぎりの設定である。

しかもこの誘拐事件がこのレッテル張りがデジタルタトゥーとして永久にネット上に残ってしまい、常に二人の関係に付きまとうということにしている。この辺が二人対世間という構図を決定的にしていて大変うまい。対世間で、二人は協調せざるを得ない状況だ。

おまけに、更紗の子供時代を彷彿とさせる梨花という少女がでてきたり、またかつての従兄弟のように更紗を奴隷化しようとする亮という男が出てきたり、同じテーマがリフレインするような構成もいい。好きな映画や父親の思い出のグラスの話など、いろいろなアイテムもリフレインしていて、小物の使い方もいい。

こういった設定が二重、三重にばしっとはまっており、まるでこうなる以外にないという細い道を主人公の更紗に辿らせてしまう。この辺がとてもプロフェッショナルな仕事でうまいなあ、と感心しました。まあ、文と更紗の再会は偶然なのですが、この程度の偶然は許容できる。

もちろん、主人公、更紗の内面はたっぷり書かれていて、申し分ない。

というわけで、非常に微妙なぎりぎりなところを狙って外さない、そのちょっと剛腕とも言える構成力になんとも感心しました。

(あらすじ)
開放的な両親のもとで自由に暮らしていた更紗の生活は父親が病死したことで暗転してしまう。母親は新しい恋人を作り更紗を捨ててしまい、更紗はおばの家に行く。そこではおとなしい普通の女の子を演じなければならないうえに、従兄弟の孝弘が性的イタズラを毎晩のようにするのだった。おばの家に帰りたくない更紗は、小雨の中、公園で本を読みふける。そんなとき、女の子の間でロリコンと評判の男、文に「一緒に来る」と言われると、おばの家を捨てて付いていくことを、即座に決断する。更紗は文の部屋で自由を満喫し、きちんと生活するようにしつけられていた文も、更紗の影響を受けるようになる。

当然ながら、行方不明になった更紗の捜索願いが出て、文はわいせつ目的の少女誘拐の罪に問われるが、更紗の文をかばう必死の説明は、犯人に感情移入するストックホルム症候群として無視される。おばの家に戻った更紗を再び孝弘がイタズラをしようとするが、酒瓶で孝弘の頭を割り、更紗はおばの家を出て施設に行くことになる。

施設で、さらに普通の子を演じることを身につけた更紗は、高校を卒業すると、ひとりで生活することも厳しく、話しかけてきた亮と一緒に暮らすようになる。愛していないが、亮の身体の求めには応じている状態だ。更紗は文と暮らしてきた自由な生活が忘れられず、文のことをネットで調べようとするが見つからない。が、パートの職場の飲み会で寄ったカフェで文を発見する。

文は更紗を無視するが、更紗が文のところへ行っていることを知った亮は、更紗に暴力を振るう。亮はもともとDV傾向のある男で、女性を奴隷状態に置きたがる性格だった。暴力で傷ついた更紗を無視できずに、文は更紗と再び付き合いを始める。更紗は亮のもとを離れ、文の隣の部屋に引っ越す。

週刊誌やネットに、過去の誘拐犯と被害者の関係が載り、更紗は正社員になるチャンスを逃し、文のカフェも休業状態となる。どこまでも過去が付きまとい、一緒にいるときだけ自由になれる二人は、どこまでも世間から逃げ続けて一緒に暮らす覚悟を決める。

★★★★☆

ちょっと気分がダウナーになったときに読むもの

わしはめったに気分が落ち込むことはないし、これまでウツになったこともない。根がお気軽系なのかも知れない。

しかし、やっぱり、なんとなく気持ちが晴れなかったり、先が行き止まりになっているように感じるときもある。

こんなときは人によっては運動したり、好きな映画やドラマを見たり、休暇を取って旅行に出かけたり、ゲームに没頭したりするのかも知れない。わしもちょっとした筋トレでもすれば、だいたい気分は晴れる。

しかしもっと強烈な行き詰まりを感じたときは、運動程度ではスッキリしない。そんなとき、わしの最後の手段は科学雑誌を読むことだ。で、この科学雑誌はほぼ日経サイエンス、一択である。まともな科学雑誌はたぶんこれ以外にない。エンジニア系としては日経エレクトロニクスも悪くないが、日経サイエンスのほうが面白い。

日経サイエンスを読んでいると、世の中がどんなに景気が悪くて、どんなに暗い状態でも、科学というのは着実に進歩するものだと実感できる。科学的な知識の増え方は景気に関係ないというのが重要だ。景気が悪くて予算のない場合も、なんとか科学者は知識を増やそうと努力する。それに大抵のブレークスルーはそんなに予算をかけない研究で発生している。極端な場合なのは数学で、ほぼ数学者の頭脳だけで終わってしまう。

知識というのは過去に獲得した知識の組み合わせという言い方もできる。これまで獲得した知識が多いほど組み合わせの数は多くなり、新しい発見が幾何級数的に増えていくのだ。だから景気は関係ない。

そして、わしはこのような新しい知識、新しい発想を読むと、ワクワクして、将来の悲観がなくなってしまう。

だからわしは、科学技術の進歩に利することに国家予算をかけることには大賛成だ。ポストドク問題(博士号をとったひとの働き口がほとんどないこと)はあまりに重要な問題に思えるので、ぜひとも国になんとかしてもらいたいものだ。こんな調子では、優秀な科学者が減ってしまうではないか。

そして日本ではあまりに低い科学者や技術者の地位をもっと向上させるようにしてほしい。科学者やエンジニアは使い捨てではいけない。

科学技術を大切にするのは国家の繁栄に必要不可欠だから、だけではありません。わしのダウナー対策にとっても欠かせないものなのです(笑)。

ひろゆき流ずるい問題解決の技術

西村博之 プレジデント社 2022.3.24
読書日:2023.3.25

ひろゆきが、問題解決のコツは自分の負担にならないように考え方を変えるだけ、と伝授する本。

まあ、ひろゆきももういいかな、という気がする。同じ話の繰り返しが多くなってきたし、しかも、わしはどうもひろゆきタイプらしく、思考回路も似ているようで、あまり参考にならない。彼ほど極端ではないが、やってる方向は一緒なので、なんか自分の体験と重なってしまう。

たとえば、大学受験のときにコスパのいい科目の倫理政経を選んだ、というのは、誰でもやってるのでは? わしも倫理政経を選んだ。簡単だからね。それどころか、学科も一番受かりやすいところを選んだ。地元の国立大学しか選択肢がなかったので、申込みの最終日まで待って、一番倍率の低いところを選んだ。その倍率というのが1.03倍で、なんと数人しか落ちないのだ。落ちるのが難しいくらいだ。ともかくわしは、非常に楽な道を選びがちと言えましょう。

だいたい調べれば(検索すれば)解決策は分かるというのもそうですよねえ。わしもしょっちゅう検索している。たぶん1日に10回以上検索していろいろ確認してる。単純な事実を求めていることが多いので、スマホですることがほとんどですが。画像検索をよく使うというのも、似ている。画像検索のほうが求めている内容をすぐに見つけるのに適しているんだよね。特に科学技術系の検索の場合は。

まあ、そういうふうに似ているなあと思うひろゆきだけど、彼によるとまず問題と課題は違うのだという。課題は正解があるもので、問題は正解がないものだそうだ。そして正解がない問題は、ゴールを自分で設定できる。もしうまくいかないのなら、ゴールを動かすのも手だし、ずるをしてもいい。つまりはこれは考え方次第、ということでありましょう。

まあ、正解がない問題については悩まずに、ひろゆきのようにゆるく考えたほうが生きるのが楽ですよね。

ひろゆきはトラブルに巻き込まれるのが趣味だそうで、そうやって解決してきた問題もこうやって本のネタに役立てているわけですが、個人的にはトラブルには巻き込まれないようにしたほうが当然楽だと思います。(笑)

★★★☆☆

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