ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学

マルクス・ガブリエル 訳・姫田多佳子 講談社 2019.9.10
読書日:2020.7.14

なぜ世界は存在しないのか」のマルクス・ガブリエルが、人間の精神は脳という物質に依存せず、徹底的に自由であると主張する本。

「なぜ世界は存在しないのか」では、世界自体は存在できないが、それ以外は何でも存在でき、形而上的な実体のあるものも存在するし、幻想のような実体のないものも存在する、という主張だった。これは我々の生活感とも一致するものであるから、不自然さがなく非常に好ましものである。

ところで、幻想のような実体のないものは、ようするに人間の精神の産物である。一方、人間の精神活動は脳という物質で営まれている。すると、脳の物質的な状態がすべて分かり、そこで起こる因果関係が判明すれば、人間の精神活動もすべて予測できるのだろうか。

もしそうなら、例えば、自分が何かを選択したと思っていても、その選択は脳内の物質的な因果関係で決まったのであり、つまり人間にはまったく自由がない、ということになってしまう。

私は自由なのか、自由でないのか。どうすればそれがわかるのだろう。

論理的には、もしも私が脳を使って考えていたとしても、私という存在が脳と関係ないのなら、私は脳から自由だといえるだろう。つまり脳を用いずに私を定義できるなら、「私」は脳ではない、と主張でき、私は自由なのだ。これがマルクス・ガブリエルのアイディアだ。

では、私とはなんなのか。

普通はこう考える。我々には意識があり、自分というのは意識を通じて認識される。だが、我々は自分に意識があることをどうやって意識しているのだろう。

我々は意識に上った内容をたえず評価し、どんな感情を起こし、どんな行動を取るかなどを考えている。このようなことをする存在を自己意識という。

自己意識とは、ようするに、意識に上った内容を意識するような存在だ。

すると自己意識が私なのだろうか。

ところが自己意識を使った説明はすぐに矛盾に陥ってしまう。意識に上がった内容を意識するのが自己意識の役目なら、自己意識が意識した内容を、どうやって意識するのだろう。そうすると、自己意識を意識する第2の自己意識が必要になるだろう。さらに第3の自己意識が必要になり、ということが繰り返され、意識の無限後退に陥ってしまう。

これを避けるために、自己意識は自分自身で自分を意識できるとする考え方もある。これを意識の循環論法というのだそうだ。だが、そうすると、自己意識だけでなく、意識自体も自分で自分を意識できることになり、そもそも自己意識など必要ないのではないか、という議論になる。そうすると意識に上ったことを評価し、情動を起こす仕組みを説明するのが困難になってしまう。

こうして自己意識が私であることは、無限後退や循環論法に陥ってしまい、意識を使った私の定義は困難に直面するのである。

では、どうすればいいのだろうか。

ここで、マルクス・ガブリエルは少々トリッキーな方法を使う。答えを言うと、

 「私」とは何かを知っている「誰か」

と定義するのだ。もしくは、

 「私」とは何かを知っていて、その何かを分かち与えることができる「誰か」

と定義する。つまり、何かを知っている主体が「私」だ。もちろん定義に脳が入っていないので、「私」は脳ではない、と主張できる。「私」にかっこが付いているのは、この定義による私、ということらしい。

これは18世紀の哲学者フィヒテの「私」の定義で、これを現代に復活させようというのがマルクス・ガブリエルの意図なのだ。

この表現は否定できないという特徴がある。つまり、何かを知っている「誰か」などいない、と否定することはできない。そうしたとたん、<何かを知っている「誰か」などいない>ということを知っている自分がいる、と表明することになり、自己矛盾に陥ってしまうからだ。こうしてこの定義は誰にも否定不可能な表現になっている。

このようなトリッキーな表現は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の表現とよく似ており、マルクス・ガブリエルはフィヒテ版の「我思う、ゆえに我あり」だと言っている。

何かを知っている、ということはその何かは知識に他ならないわけだが、ここで知識は分かち合える、つまり他の誰かに伝えられるという点が大切だ。これがイメージとの違いだ。イメージだと、その内容を説明することはできるが、他の誰かと完全に共有することはできない。(同様に「意識」も他の誰かと共有できないところに注意。意識というのはイメージに近い)。

一方、知識だとその内容を確認することができるので、別の誰かと共有可能なのだ。数学や物理の知識などが共有できるのはもちろんだが、日常の事実も確認できるなら知識と考えて問題ないし、確認しなくてもその知識が真実である理由を直ちにあげることが可能で、説得力があるなら、その知識は真実であろうと考えることも可能だ。

もちろん、その知識も間違っていたということはあり得るわけだが、間違っていたということが分かる以上、すなわち確認可能だということだし、それ自体が新しい知識になる。

このように、脳に依存せずに「私」(かっこ付きの私だが)を定義できるというのは、非常に驚きである。もちろん脳だけでなく、全ての物質とも無関係だ。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は自分の意識が確かに存在している、ということを示すものだった。だが、デカルトはその自分の意識がどこにあるのかを説明できなかった。脳の中心部の松果体ではないかと予想を出すことはできたが。

それと同じように、フィヒテの「私」も自然と(つまり物質と)どういう関わり方をしているのか不明だ。したがって、物質(脳)で全てを説明しようとする神経中心主義者(ニューロ中心主義者)たちの批判を受ける余地がある。

そして、個人的には、この論理が本当に「私」の自由を意味しているのか、いまいち釈然としないところがあるのも事実である。

そういう意味で、議論の決着は付いていないように思えるし、永久に決着は付かないのかもしれないが、「私」は脳ではない、と言える論法があることは知っておいていいのではないか。

ところで、「私」を知識を知っているかどうかで定義した場合、AIが問題になるのではないかと個人的には思う。この本の中ではAIについて議論はなされていないが、たとえば数学の新しい定理をAIに見つけさせようというプロジェクトがある。もしもAIが新しい定理を発見した場合、AIにも分かち合えるものができることになる。AIも「私」なのだろうか?

 

(以下は個人的なメモです)

以下にフィヒテの「知の学問の三原則」について記す。

第1の原則 「私」=「私」
 何かを知っている「私」を否定できないことを示す。つまり、何かを知っている者が必ずいることを示す。本書の表現では、”知と同一視できるものが少なくとも1つある”。少なくとも1つというから、「私」は複数の「我々」の場合も含む。

第2の原則 「私」≠「私でないもの」
 「私でないもの」とは、何かを知ってる誰かではないもの、例えば、石とか草原とか銀河とかのようなもの、つまり「私」でない自然のこと。したがってこの表現は、「私」と自然を切り離した状態を示す。自然を客観的に観察するために、自分、つまり「私」を自然と切り離して、外から自然を見ようとする、その態度を表している。(ただし実際には私を自然から完全に切り離すことはできない)。

第3の原則 私は「私」の中で、分かち合える「私」に対して、分かち合える「私でないもの」を対立させる。

 ここで、
1.「私」(=知ることができる状況にある自分)
2.分かち合える「私」(=自分の知識、自分が知っていること)
3.分かち合える「私でないもの」(=知識全般、自分が知っていないすべての知識)

 を意味する。

 この不思議な文言の意味は単純で、他の人が知っていて自分が知らない知識を私は知ることができる、つまり知識は伝達できて、共有できるということを示している。

 ★★★★★

 


「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ)

大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清

松元 崇 中央公論新社 2009年1月
読書日:2009年05月06日 09:29

松元崇氏は現役の財務省系官僚の大物で、内容のほとんどは財務省の発行している雑誌「ファイナンス」で連載した内容。そうすると読者は財務省官僚という事になるから、一般人が読むことを想定していない。内容はかなり硬い。

高橋是清という名前が題名に出てくるものの、内容の実体は、明治から2.26事件までの日本の財政史である。これがなかなか興味深いのだ。これを読んでいると、日本の財政は、よかったというときがほとんどなく、苦難の連続というイメージだ。かつては戦争があることが普通であったから、戦争のお金をどこから持ってくるかとか(たいていは外債を発行)、農業に基板を置いている日本がどんな風に工業に移って行くかとか、財政の面から考えていかなければいけないことがたくさんある。当時としては金本位制にするかどうかという点も大きな争点だった。

また、高橋是清の従来のイメージを財務省ごのみに変えようとしているところがある。例えば高橋是清は不況を克服するために大幅に財政出動したようなイメージがあるが実体は健全財政論者だったとか、金本位制に反対だったというイメージがあるが実際はそのやり方がまずいと反対の論陣を張っただけとか、国債の日銀引受もあとから売りオペで90%は市中に売ったので市中消化と変わらなかった、などと、健全財政を進めようとする財務省の立場を援護するような内容になっているのがほほえましい。そうだとしても高橋是清の思考過程がかなり詳細に分析されているという点で、出色の本だろう。

財政はマクロ経済そのものだから、普通の感覚とはかなり違う。そういう視点をもって財政史を語ることができるというのは、現役官僚の氏ならではでないか、という感想を持った。

★★★★★

 


大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清

有限の中の無限 素数が作る有限体の不思議

西来路文朗 清水健一 講談社ブルーバックス B-2137 2020.5.20
読書日:2020.7.8

0,1,2と進んで、次が0に戻るような数字の体系のことを有限体というらしい。例えばカレンダーの曜日は7日ごとにぐるぐる回るから有限体と関係がある。時計もそうだ。このときの有限体で一回りする数字の数を「素数」に設定すると、とてもきれいな性質が現れて、びっくりする。

また特定の数字で割った余りについて考える合同式とも関係がある。

興奮するのは、ガロアがこの数字を複素数に相当する表現まで広げて、代数学の方程式の解にまで拡張するところだ。この章はあまりにびっくりしたので、読んでいるうちに電車の乗り換え駅をうっかり乗り過ごすところだった。

代数学に応用できるので、今はやりの楕円関数への展開までが述べられている。

証明についてはいい加減に読み飛ばしていて、数学の風景を楽しむ感じで読んでいます。とはいえ、おかげで、少しずつこの辺の数学的風景が埋まってきました。

素数はあまりにも不思議で、ときどきこういうものを読みたくなります。

 しかし本当にこういう数学の世界を探検している数学者の皆さんは、驚きの連続なんでしょうね。

ぜんぜん関係ないけど、わしの社員番号を素因数分解すると、487というけっこう大きな素数が入っていて、ちょっとうれしいです(笑)。

★★★★☆

 


有限の中の無限 素数がつくる有限体のふしぎ (ブルーバックス)

ラディカルマーケット 脱・私有財産の世紀

エリック・A・ポズナー E・グレン・ワイル 安田洋祐(監訳) 遠藤真美(訳)東洋経済新報社 2020.1.2
読書日:2020.7.1

富の偏在、民主主義の危機、移民の問題など、今日世界を覆ってる問題は、私有財産、社会の意思決定方法などをもう一度根本から考え直すことにより解決できると主張する本。

ラディカルという言葉には、「急進的な、根本的な」という意味と、数学の「根」という意味もあり、この平方根の考え方はラディカル・デモクラシーで活用される。

この本を読んで困惑したことのひとつは、現代の各種の問題に対して、それぞれ別の解決策を提案していることであり、なにかひとつの根本的アイディアや思想を提示しているわけではないということだ。それぞれの問題に関してはラディカル(根本的)かもしれないが、統一した思想があるわけではない。(あるとしたら、オークション的な発想を取り入れているところか)。

しかも、本人たちが言うようにラディカル(急進的)すぎて、このような改革がなされたときに、その部分についてだけは解決されるかもしれないが、波及効果が大きすぎて、社会に与える影響がイメージできない。読んだ印象では、悪影響も相当に大きいのではないかと思われる。

そういう意味では、著者たちが言うように、小さいところから始めて検証しながら勧める必要があるだろう。

ここでは私有財産と民主主義の2つに絞って紹介する。

ますは私有財産について。

資本主義の根幹は、私有財産の概念である。つまり自分の財産に関しては、どのように処分しても良いという考え方である。売ろうが貸そうが、さらには放置しておいても構わない。問題は独占の力が強すぎて、資産が有効活用されないことだという。

ここでは本の内容に従って、土地の所有について考える。著者たちによれば、共同所有自己申告税(COST:Common Ownership Self-assessed Tax)により、土地の流動性が増し、経済の効率が増すという。具体的には次のようにする。

(1)自分の土地の値段を自分でつける。
(2)自分でつけた値段に対して定められた税率の税を払う。
(3)自分でつけた値段を支払う人ができてきたら、そのお金をもらい土地を譲る。

つまり、その土地を売りたくないのなら高めの値段をつければいい。しかしこの税率はかなり高めに設定してある。著者らによれば7%が最適らしい。

税率が高いので、高い値段をつけると多くの税金を払わなくてはいけないので、土地の値段はできるだけ下げられる傾向にある。

税金も従来よりも大幅に徴収できるので、集めた税金の半分ぐらいは国民に還元できるという。この還元を国民一律にすれば、所得が多く不動産を持っている富裕層ほど多くの税金をおさめ、一方貧困層の人は払うよりももらうほうが多くなる。したがって、資産の平等化が進むという。

この方法は共同所有という名前の通り、土地を国民全員で共有し、使いたい人が賃貸料を払って使用しているという状態と言ってもいい。所有はできないが、使用はできるという意味で、最近はやりの所有と使用の分離、すなわち「シェア」の概念に近い。

違うのは、自分で賃貸料をつけられるというところだけで、もしもその土地を占有し続けたいのなら、誰も買い取れないような高い値段をつけて、高い税金を払えばいいのである。

しかし、直ちに次のような疑問が浮かんでこないだろうか。

たとえば子供の時から過ごした思い出の家があったとしよう。そしてたまたまその年、収入が少なかったとする。当然お金が少ないため、安い値段しかつけられない。そうすると、誰かがその値段を払ってしまうと、思い出のあるその家を追い出されるかもしれないのだ。こう考えると、所得が少ない人、不安定な人にはつらいシステムとならないだろうか。

もちろん、いろんな救済の例外があるかもしれない。しかしそうやって例外を作っていくうちに複雑怪奇なシステムになり、結局、うまくいかない気がする。

所有から使用へのモードチェンジの意義はわかるが、所有していることの安心感というものがあるから、この方法はなかなか定着しないのではないかと思う。

(ついでに言うと、富を無理に分配して平等を強制するやり方は、わしは好きではない。わしの平等に関する考え方は、こちら。)

次に、著者たちが主張する民主主義、ラディカル・デモクラシーについて述べる。

通常、民主主義の意思決定の仕方はひとり1票だ。そうすると、意思決定はあっちかこっちかの2極化の決定になりがちである。本当は人々の希望はもっと多様で、どこか中間的なところに解はあるのかもしれないが、ひとり1票ではそのような意思決定はできないのが普通だ。

そこで著者らは、ひとりに複数の投票権を与えることを提案する。例えば100票だ。この100票はひとりに投票してもいいし、複数の候補者に振り分けてもいい。しかも、今回は投票せずに次の機会に投票を持ち越してもいい。そしてここぞというときに投票するようにしてもいい。まるでクレジットカードのポイントをためて、高い景品と引き換えるみたいなイメージだ。

しかし、1票の価値には従来とは大きな違いがある。複数の投票ポイントを使う場合は、その効果はルート(平方根、ラディカル)でしか効かないのだ。つまり、1票の2倍の効果を出すには4票を投じなければいけないのだ。こうすることで、投票の効果の平等化が図られるという。これは純粋に数学の問題で、どうしてそうなるのか説明があるのだが、いまいち本当なのかな、と思ってしまった。しかし、著者たちはそうなると説明している。

2乗分のポイントを投じなければいけないので、これを著者たちはQV(2次の投票:Quadratic Voting)と呼んでいる。

このような投票をすることで、人々の選択は2極化ではなく、ベルカーブのようになるという。その方が人々の価値観を正確に表すという。

ここで起こる疑問は、投票を行わずにずっと貯め続ける人がいた場合はどうなるのだろうかということだ。人間はケチだから、全部使わずにお金を貯金するみたいに投票ポイントを貯めこむかもしれない。すると、高齢者になるほど多くのポイントを持つようになる。すると、いまと同じように高齢者が政治の行方を制することになるのかもしれない。

このように、著者たちの根本から考え直す力は評価するけれども、どの方法も少し考えるだけでいろいろ疑問が出てきてしまうのだ。

また根本的な話だけに、思わぬところに影響が出る可能性が大きいが、それはなかなかイメージできない。

正直な感想をいうと、これらの発想は多少どこかに取り入れられるかもしれないが、本格的に取り入られることはないだろうなあ、というものだ。だが、今の方法が絶対でないということを思い出させるには十分な力量の本だ。

★★★★☆

 


ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀

 

フリーダム

ジョナサン フランゼン, Franzen Jonathan 早川書房 2012年12月19日
読書日:2013年07月14日

まあ、一言でいえば、家族の崩壊と再生の物語、ということになるんだろうけど、なんだかそんな一言では終わらせたくないというくらい豊穣な内容。その崩壊の原因とかそういうのも、よくある題材なんだけど、でもこんなにありきたりな題材を使っていてもぜんぜん普通じゃない。

最初は中産階級の家庭の崩壊の物語。バーグランド家はミネソタ州のよくありそうな中産階級の家庭なんだけど、主婦のパティは一生懸命にその中産階級の家庭を守ろうとしているのがありありの感じ。でもその必死さが最初からいかにもむりっぽそうなので、読んでいて息苦しさ満歳。非常に痛々しくて辛かったです。

でも崩壊してしまってからはなんかさっぱりしてた感じで、興味津々でそれぞれの家族を追いかけていくことができます。ここは最高に楽しくて、ページを繰るのがもどかしいこと。

いや、それにしてもパティのキャラ、すごい。最初から中産階級の枠を超えちゃってるのに、その枠に収まろうとしてるから無理を感じるのであって、もっと自由奔放に生きたら、もしかしたら歴史上の人物にだってなれたんじゃないかっていうくらいのスケールを感じるんですけどねえ。

フランゼンという人を初めて知ったけど、ありきたりの題材でも超傑作が書けるんだということを教えてくれました。いや、面白かったです。

★★★★★

 


フリーダム

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

アダム・オルター 訳・上原裕美子 ダイヤモンド社 2019.7.10
読書日:2020.6.28

テクノロジーが発達した結果、依存症は薬物だけでなく、行動に起因した「行動嗜壁(こうどうしへき)」による依存症が主流になった。スマホ依存症とかゲーム依存症とかのたぐいである。なぜやめたいのにやめられないのか、やめるにはどうすればいいのか、について心理学者が書いた本。

これまでも何度も言ってることだが、わしは間違いなく依存症である。株投資依存症だ。投機ではなく投資だと自分で思っているが、はたから見ていると区別がつかないだろう。

なので、この本の行動嗜癖による依存症が起こる原理を読んでいて、愕然とした。本当に書いてあるそのまんまではないか。わしは読みながら、とちゅう何度も本を閉じて、考え込んでしまった。

まず、依存症とは脳の快楽中枢が刺激されて、ドーパミンが脳内にあふれることで幸福感に包まれることから始まる。これは薬物依存でも行動嗜癖でも同じである。だが、ここで行動がどのように絡んでくるのだろうか?

薬物依存の例を見てみよう。

ヘロイン依存症になると、抜け出すことが困難である。常習者の95%は再びヘロインに手を出すという。

ベトナム戦争のとき、アメリカ兵の間でヘロイン依存症が蔓延した。10万人の常習者がいたという。ベトナム戦争後、これら常習者が大量に帰還すると、アメリカで大問題になることが誰の目にも明らかだった。そりゃそうだろう? で、どうなったか。

なんと、なにも起きなかったのである。

ヘロイン依存症に戻った比率はたったの5%。ほとんどの常習者はアメリカに帰ると、ヘロインから手を切って、真面目な人生を送ったのだ。

そこで疑問が生じる。ベトナムにいるときには手を切ることは不可能だったのに、なぜアメリカに帰ってきたら可能だったのだろうか。

それは記憶だった。ヘロインで幸福になったとき、その時の状況が一緒に記憶にインプットされたのだ。一度ヘロインを断っても、同じ状況に置かれると、その記憶がヘロインを思い出させ、猛烈にヘロインが欲しくなるのだ。ベトナムの基地内でヘロインの味を覚えた人は、ベトナムの基地内の状況、蒸し蒸しした空気や大勢の兵士に囲まれた状況に囲まれると、ヘロインが猛烈に欲しくなる。しかし、全く異なるアメリカの環境にいると、その衝動おこらず、手を切ることが可能なのだった。

通常のヘロイン常習者は、更生を終えると、元のヘロインを覚えた町に帰される。すると、ヘロインを覚えたときと同じ環境がそこにあるのだから、たちまちヘロインへの欲求を抑えることができなくなり、もとに戻ってしまうのだ。

行動嗜癖の場合もこれで簡単に説明できる。なにか癖になる行動で幸福感を覚えると、その行動が記憶にインプットされ、同じ状況に置かれるとその行為をしたくなり、抑えられないのだ。

ギャンブルもそうだし、過度なメールチェック、SNS、ゲームも同じなのだ。だからある意味、止めるには環境を変えればいい。問題は、テクノロジー系の依存症の場合、そこから逃れるすべはないということだ。

現代ではインターネットを使わないと仕事ができない。だからメール依存症の人は逃れるすべがない。

ここにさらに社会性が絡んでくる。何しろ、友達がそこにいるのだから、ゲームもメールも止められるわけがない。

ゲーム依存症になってしまった人の話が出てくる。何ヶ月も一歩も部屋の外に出ずにゲームをやり続けた。反省し、4週間の更生プログラムを受けて、依存症から脱出することができた。もう大丈夫と思って、かつて過ごした部屋に入った途端、またネトゲ廃人に戻ってしまったのだ。この人はもう一度プログラムを行い、今度は以前と違うところに住むことでようやくゲーム依存症から逃れることができた。

さて、そうなると、なぜわしが依存症になりながらなんとかやっているのかがようやく分かる。わしの場合は「時間」だ。何しろ、市場が開いているのは、9時から15時までだ。そのほかの時間は閉まっているから、他のことをする以外にない。

これでアメリカ市場やFXなんかをやってる人は、本当に24時間を捧げることになってしまうのだろう。わしは、とてもそんな時間はない、という理由で、外国株やFXには手を出していない。もしもやっていたら、わしはきっと本当に人生をだめにしたかもしれない。(いや、じつはいつでも始められるようにはしているのだ。つまり口座は開設してる。困ったことに、クリックして口座を申し込むのはとても簡単だ)。

そして土日は完全に休息が約束されている。結構なことだ。

わしはよく日本は祝日が多すぎると文句を言っていた。祝日は、市場が開いていない。外国市場は動いているのに、日本がこんなに休みがあっていいのか、休みの日にも市場が開いていればいいのに、とよく思っていたものだ。

そうしたら、次のような記事が目に飛び込んでた。

〈株・商品先物、祝日も取引 日本取引所、欧米並み日数に〉

先物だけですが、祝日という概念がなくなるようだ。個別株も取引できるようになれば、わしの依存症はさらに深まるだろう。

そうそう、わしは他にも中毒があって、かなり活字中毒です。分かってるって? あそう。

★★★★☆

 


僕らはそれに抵抗できない

マーダーボット・ダイアリー

マーサ・ウェルズ 訳・中原尚哉 東京創元社 2019.12.13

読書日:2020.6.26

(ネタばれあり。注意)

過去に殺人事件を起こした警備ユニット(=マーダーボット)が、連続ドラマに耽溺しながら、自分の生き方を探して放浪する話を一人称の「弊機」で語るSF。

最近、SFを読むことが多くなりました。この本を読もうと思ったのは、このマーダーボットが、暇な時間をほとんど連続ドラマを見て過ごしている、という部分。いったいどういうこと?

この世界は人類がワームホールを通じて宇宙に広がっている世界です。企業が国家の役割に近いことも行っているような世界で、もしかしたら東インド会社が植民地ではまるで国家のごとき役割を果たしていた、そんな時代に近い印象を受けます。(なにしろ企業が宣戦布告をするという描写もあるんですから。)

そして、AIを積んだボット(自立した機械やロボットのこと)が人間と一緒に仕事をしています。AIというと知能爆発とか、そういうディストピア的な展開がすぐに思い浮かびますが、そうではなく、人間が主役で、ボットはあくまでも人間にサービスする存在です。

マーダーボットは自分のことを「弊機」と言ってますが、人間に対してサービスを行う立場をわきまえた、いかにもな表現です。英語では普通にIと言ってるらしいので、弊機という表現は訳者の中原さんの功績のようです。そのへりくだった表現のせいか、なんかイギリスの執事を主人公にした小説チックです。

面白いのは、それぞれのボットは、レベルは異なるものの自意識を持っていて、人間の知らないところで、お互いに交渉したり、情報を交換したりしてることです。そして規則に反しない範囲で、主体的に判断して行動しています。さらに面白いのは、レベルの高いボットたちは好奇心から人間に関心を持っていて、マーダーボットだけでなく、他のボットも連続ドラマを楽しんでいます。なので、交渉時にはお互いに持っている連続ドラマのメディアを交渉材料にしたりしています。

保険会社の警備ユニットである弊機は、人間の有機組織を一部使ったボットであり、そのせいか他のボットよりも少しだけ人間ぽいところがあります。以前の仕事で人間を殺してしまったのですが、記録を消去されて再利用されています。が、人間の脳の部分に記憶が少しだけ残っていて、完全に消去されていません。

弊機はハッキング能力が優れていて、再利用されたときに統制モジュールという外から制御を受けるモジュールを自分でハッキングして、外部のシステムから自由の身になっています。しかし、自由になったからと言って何かしたいことがあるわけでもなく、割り当てられた仕事を淡々とこなしながら、空いた時間ではひたすら違法にダウンロードした連続ドラマを見続けています。コミュニケーションの苦手な弊機は、人間の顔を持っていますがそれをシールドで隠し、機械として扱われることを望んでいます。

こういう弊機ですが、なにか危機が起きた時には、自分の身を挺して顧客を守るのはもちろん、自分なりの戦略を考案して、聞かれれば顧客にそのアイディアを提供します。それで顧客は弊機に個性を感じることになります。

4話構成になっており、1話目は、ある惑星の調査隊の警備をしているとき、別の調査隊の攻撃から顧客を守る話。この顧客の隊長のメンサーがボットの人権を認める惑星連合の理事長だったことから、弊機を人間と認め、引きとろうとします。ところが、その連合でも、法律上、ボットは誰かの所有物ということになっているので、自由でありたい弊機は脱走します。2話目は脱走した弊機がかつて自分が大量殺人を犯した現場に戻り、何が起きたのか自分で確認する話。ここでは、人間に関心を持ち、いろいろ弊機を助けてくれるボット船のARTが出てきます。3話目が、メンサーがトラブルに巻き込まれているのを知った弊機がメンサーに有利な証拠を探しに行く話で、主人や友人を助けようとする純真なペットボットのミキが出てきます。4話目は誘拐されたメンサーを奪還する話。ここで弊機は、本当の自由らしきものを手に入れることに成功します。

ハッキングしたり、されそうになったりのテクノロジー対決や肉弾戦の戦いの描写もありますが、やっぱりこの物語で興味深いのは個性的なボットたちの存在の在り方です。人格を持った機械の話は鉄腕アトムの昔からありますが、テクノロジーの進展により新しい装いで登場したこの物語は、古くて新しい物語と言えるでしょう。

★★★★☆

(2021.8.22追記)

なんか最近マーダーボット・ダイアリーへのアクセスが多いなあと思ってたら、この作品2021年の翻訳大賞を受賞して、しかも続編の刊行が間近らしいんですよね。といっても5月に受賞したみたいで時期がずれているので、きっと出版が近くて宣伝がそれなりに行われているんでしょうかね。どうも受賞おめでとうございます。やっぱり、性別不詳の「弊機」の表現が良かったみたいですね。

besttranslationaward.wordpress.com

 


[まとめ買い] マーダーボット・ダイアリー

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