ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

ハンス・ロスリング, オーラ・ロスリング, アンナ・ロスリング・ロンランド 日経BP社 2019年1月11日
読書日 2019年4月10日

 

この本は、公衆衛生学の本でもあるけれど、どちらかというと行動経済学進化心理学の内容と近い。というのも、人間の脳にそもそも備わっているバイアスに起因する思い込みを主なテーマにしているからだ。だから例えば、「予想どおりに不合理」なんかの本と相性がいいんだろうなと思う。

この本では、人間の基本的な発想が世界という大きな世界を理解するのにまったく役に立たないことが次から次へと紹介される。具体的には、世界は分断されているとか、世の中はどんどん悪くなっていくとか、未来は過去の延長にあるとか、そういった10の思い込みにまとめられている。

結局、人間の感性は長い間続いた狩猟採集生活(石器時代)に培われたものであって、つまりせいぜい150人くらいの社会に起こることへの直感しか働かないということらしい。約1万年前に人類は農業を発明し、結果、人が何万人も集まる都市や国家が発達したが、それからの時間があまりに短すぎるために、それが遺伝子的に脳の思考方法に影響を与えるまでに至っていないのであろうと思われる。

とくに統計的な発想ができないのは大変痛い。そして、たとえ専門家が理解できても、それを一般の人に分かりやすく説明するのは至難のことではないだろうか。そして一般の人に理解されなければ、政策は進展しないのである。困ったことである。

わしは未来は常に希望にあふれていると考えるが(その理由は単純で科学技術がいまのところ常に発展しているから)、未来は暗く、過去の方が良かったと思う傾向があるのは困ったことだと思う。未来が暗ければ、投資なんかできないではないか。

似たようなことだが、世界は残酷で世の中は常に厳しい、という思い込み。進撃の巨人のミカサ・アッカーマンの「世界は残酷なんだから」というセリフを何となく思い出してしまう。でも、狩猟生活では、常に世界は危険だと用心を怠らない人間の方が生き延びたであろうから、そういう思い込みができたことは分からないでもない。

ここで、アフリカの発展の度合いがものすごく大きいことは、話に聞いていたが改めて感心した。とすると、中国がアフリカに大々的に投資を行っているのは先見の明にあふれているとしか言いようがない。中国の一帯一路は批判も多いし、必ずしもうまくいっているわけではないけれど、日本も絡めるところは絡んで行った方がいいと思う。いや、安部首相は実際にそうやっているから安心して見ているんですけど、もうちょっと積極的でもいいのではないかと思った。

世界は日々、よくなっている。絶対的貧困がなくなる日も近い。作者が言うように、誰も気がつかないうちにそれは達成できるでしょう。この本は作者の最後の本で遺書のようなものだそうですが、この本が世界中でベストセラーになって本当に良かったです。

 ★★★★☆

 


FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

賭博者

1969 新潮社 ドストエフスキー, 原 卓也
読書日:2019年4月3日

登場人物のほとんどがギャンブル依存症(ただしロシア人のみ)で、ほとんどの人が破産寸前(ただしロシア人のみ)の状態にある話。

わしはギャンブル依存症に興味がある。また、ドストエフスキーにもまあ普通に関心がある。なので、ドストエフスキーギャンブル依存症で、しかもそれをテーマにした小説(本書)を書いたことを知っていたので、ぜひ読んでみたいと思っていたが、なかなか読むタイミングが訪れなかった。今回、たまたまほかに読む本がなかったので、本書を手にとってなんとなく読み始めたのだが、これが大正解だった。

ドストエフスキーの文体は特殊で、1行1行がなにかヒリヒリとした変質狂的なしつこさがあって、ほかにこのような文体の作家が存在しないため、慣れると中毒性を発揮する。そういうわけで、読み始めるとたちまち夢中になって読んでしまった。ドストエフスキーはすごいなあ。

ドストエフスキーに関しては、持病の「てんかん」との関係が語られることが多いが、このヒリヒリした文体はギャンブルにおける食事も忘れるほどの集中、独特の興奮や焦燥感にぴったりで、てんかんの影響よりも、ギャンブル依存症により脳に不可逆的な変化が起きたからと考えた方がいいのではないかと思う。

ドイツの一角にあるルーレンテンブルグ(ルーレットの町)という町のリゾート・ホテルがほとんどの舞台で、ここには世界中からギャンブル好きが集まってくる。この小説では、国ごとに登場人物に明確に役割が与えられていて、ドイツ人は真面目で、ギャンブルなどせずに、堅実にお金をためる。イギリス人は事業を行い、投資はするが、ギャンブルはしない。一方、ロシア人はほとんどがすぐにルーレットに夢中になってしまい、しかも一攫千金しか狙わない。フランス人はそんなロシア人にお金を貸したり、色気で手玉に取ったりする。ポーランド人は、ロシア人のそばにベッタリついて、小銭を掠め取ろうとする役割。

主人公のアレクセイは、将軍の付き人をしていて、将軍の義理の娘のポリーナを愛している。どのくらい愛しているかというと、ドイツ人の公爵に喧嘩を売れと言われれば本当に売ってしまい、ホテル中のひんしゅくを買ってしまうくらいだ。この結果、アレクセイは付き人を首になってしまう。そして彼はギャンブル依存症であり、ギャンブルで儲けたら仕事をやめて、お金がなくなると、また仕事をするという感じだ。

アレクセイの人生はポリーナとギャンブルで成り立っていて、この小説のテーマのひとつは恋が勝つのか、それともギャンブルかという点。

どちらが勝つと思いますか。それは、当然、ギャンブルが勝ってしまうんですね。ポリーナは彼の元を去り、アレクセイはまたギャンブルをするわけです。ギャンブル依存症はしょうがないね。

で、まあ、小説の結論を言ってしまったわけで、ここで株と依存症について考えてみたい。

株式市場で取引をするのはギャンブルでしょうか。やっているほとんどの人はギャンブルではないと言うでしょうね。これは投資であると。一方、やっていない人はギャンブルと言うでしょう。やってない人は、ほとんどの人は株で損をすると信じているからです。

実際には株取引はギャンブルでもないし、純粋な投資でもない、なにか中間的な存在です。デイ・トレーダーをやっている人のなかには、ほとんどギャンブル感覚でやっている人もいるかもしれませんが、しかし、その中にも、押したり引いたりといった心理の波のようなものを市場に感じて、それに乗ろうとしているわけで、0か1かの単純なギャンブルをしているわけではありません。

しかしながら、依存症という視点では、株式市場には強烈な依存症があると言わざるを得ないのではないでしょうか。

では、依存症かどうかはどうしたら分かるでしょうか。

それは稼いだ金額や損した金額に関係なく、市場に居続けるかどうかで分かるんじゃないでかと思います。

賭博者のアレクセイは大儲けもするし、逆にほとんど文無しにもなりますが、唯一やらないのは、賭博場から退出することです。

わしも、この先何百億円儲けても株式市場にいるだろうし、たとえほとんどの財産を失ったとしてもやっぱり株式市場にいるんじゃないかなと思いますね。なのでやっぱり、自分は依存症に違いないと思うのです。

リスクコントロールは投資の基本ですが、わしの場合、破産しないためというよりも、実際にはここに居続けたいからなんですね。種銭を失いたくないということなんです。この場に居続けたいという気持ちがリスクコントロールさせるという、なんともアンビバレントな状態です。

依存症は悪いわけではありません。誰だってどうしても止められないものがあるはずです。しかし、人生を壊滅させてもやるというのは、やっぱり自殺に等しいですから、なんとかそこで留まらないとね。

この本に出てくるロシア人のギャンブルのしかたは、ともかく全財産を失うまで、とことんやってしまうというひどいもので、食事代だけを残してやめようとするが、気が変わってそれすらも賭けてしまうような賭け方です。こうしたロシア人の気質(とドストエフスキーが信じている)が見所のひとつで、特に「おばあちゃん」と呼ばれる将軍の母親の負けっぷりは素晴らしいですけどね。おばあちゃんは賢明にも、破産する前にギャンブルをやめます。

ドストエフスキーの賭博者は、あまりにリアルすぎて、この分野の古典の座は揺るがないでしょう。とても口述筆記で書いたとは思えません。

★★★★★


賭博者(新潮文庫)

今こそ、韓国に謝ろう

百田尚樹 飛鳥新社 2017年6月8日
読書日:2019年3月28日

 

右派の百田さんによる、韓国をディスる本。基本は、「日本は勝手に朝鮮を良くしてごめんなさい」、という主張。

一昔ならともかく、おそらく今の日本人で、韓国を併合したことに対するなんらかの罪悪感を持っている人は皆無でしょう。出版は2年前ですが、出版当時にこの本を読んでいたら、内容に多少眉をひそめたかもしれないけど、いまやそんな感情はありえません。韓国に関しては、すべてスルーです。反応するのもばかばかしい。政府は粛々とできることは全部やって対応してほしい。(制裁を含む)

しかし、この本を出版した飛鳥新社にとっては、いまの状況はちょっとまずいかもしれませんね。この本は日本人に韓国についてのばかばかしさを啓蒙する目的なのだと思いますが、すでに韓国自身がその役目をすでに存分に発揮していますから。それに比べたら、この本に記載してある事項は、あまりショッキングではないです(苦笑)。文庫版が出てますが、売れ行きが悪いかも。

しかし、併合前の朝鮮の状況はひどいですね。この状況から100年たって、どこまで国民の意識が高まったのか、韓国人の態度を見ていると疑問です。

特に、法律を作るときにさかのぼって処罰する、後出しじゃんけんだけは、放置国家、じゃない法治国家してあまりにひどいと思うので、改善してほしいですね。他のことはともかく、これだけでも徹底できれば、少しはましになるんじゃないでしょうか。

韓国の大統領がすべて引退後にひどい目にあっているのは、目を覆うばかりですね。自分の正統性を主張するためには、それ以外のすべてを認めるわけにはいかないという、中華思想的な発想のような気がします。中国みたいに大きな国なら、そのくらいのことをしないといけないというのも分からないではないですが、そんなに大きくない韓国でそんなことをやったら、国中がギスギスするんじゃないですかねえ。

 ★★★☆☆

 


今こそ、韓国に謝ろう


今こそ、韓国に謝ろう ~そして、「さらば」と言おう~ 【文庫版】

歴史で読む中国の不可解

岡本 隆司 日本経済新聞出版社 2018年10月10日
読書日:2019年3月27日

中国に関して、何か事件が起きるごとに、歴史学の著者が言葉を求められ、それに応えて書いた文章をまとめたアンソロジー。うまく編集ができていて、いちおう、読むと中国人の捉え方が少しはわかったような気になれる。

この本のまとめをいうと、結局のところ、中国の行動には長ーい過去のいきさつがあり、その歴史と19世紀に突然現れた西洋文明との間には齟齬が生じるのは仕方がない、ということろだろうか。

例えば領土である。

かつては中国は世界の中心で、周辺国との間には国境なんてなかった。そんなものはどうにでもなったからである。ところが近代になって西洋の列強に分割されそうになって、慌てて国境を定めた。それは死守すべきラインであり、中国人の考える自分たちの権威が及ぶと考える範囲よりもかなり狭かった。彼らの意識の中では、沖縄も台湾も東南アジアも入っていた。意識の上では属国全部を含む、とても広い範囲になるので、尖閣諸島や沖縄も自分たちの領土だと主張するのに特に違和感は中国人にはない、という。

役人の腐敗も、そもそも腐敗が中国社会のなかにビルドインされているという。

中国はずっと小さな政府であり、役人の俸禄はとても少なかった。その代わり、庶民から巻き上げるのを黙認していた。だから腐敗は、中国の不可欠の要素になっていて、今の共産党の中国でもそれは変わらない。ただ節度というものがあって、その時々でそこまでやったらアウトみたいな基準があった。豊かになると腐敗が進む社会構造が組み込まれているので、いい悪いの問題ではなく、程度の問題で、そこに近代国家の基準を当てはめてもうまくいかないという。

そのほか、中国は昔からずっと輸出超過の国だったから、貿易黒字は今に始まったことではないとか、また中国はテクノロジーになじめない組織構造をしているから、技術大国の状態を保てるのか疑問とか、書いている。

中華思想日清戦争の優しい解説があり、その辺も有益。

★★★☆☆

 


歴史で読む中国の不可解

新しい名字 (ナポリの物語2)

エレナ フェッランテ, Elena Ferrante 早川書房 2018年5月17日
読書日:2019年3月21日


この作品、世界的なベストセラーでむちゃくちゃ面白いんだけど、日本ではまったく話題になっていません。もったいないなあ。

リラとレヌーの二人の女性の友情、というか因縁を扱った、ナポリ4部作の2作目。今回は語り手のレヌーが高校から大学を卒業するまで。つまり、まさしく思春期の時代を扱うことになるのだが、第2部でもこれまたレヌーはリラの生き方に圧倒される展開となる。

二人の関係をもう一度おさらいすると、次のようだ。

二人ともナポリの貧民地区に暮らしていて、そこから脱出しようとしている。

努力家だが天才とはほど遠いレヌーと、破壊と創造を繰り返す荒々しいリラ。レヌーはリラのお陰で、自分が真の意味で才能がないことを常に思い知らされている。何か創造的なことを成し遂げたと思っても、その根底にはリラから与えられたインスピレーションを発見してしまうのだ。

しかし、二人は離れることができない。なぜなら、この二人は他の人とレベルが違いすぎて、お互い同士しか理解できないからだ。たとえ、一方が進学に成功し学業のキャリアを重ねて、他方はそれが叶わなくなっても、常にお互いを意識して生きていく。

お話の展開を語ってもいいのだけれど、ここは作品の工夫について語りたい。

二人のうち、レヌーは奨学金を手に入れることに成功して、高校に進学する。他方、リラは進学は叶わず、16歳で結婚する。相手は店を何件か経営しているステファノという男だ。題名の「新しい名字」とはリラが人妻になったことを示している。学生と人妻では立場があまりに違いすぎて、このままでは二人の人生に接点がなくなってしまう。

で、どうやったら二人の人生を交錯させられるのだろうか。ここで作者は少々トリッキーな手法を使う。

まず、この本の3分の1ぐらいは高校2年の夏の2週間ぐらいの出来事を語っている。それを実現するために、いろいろな理由で主要な人間、といっても3人なのだが、その人間が全員同じ島に集合するように仕掛けている。

しかし、まあ、これはなんとかなりそうなので、実際に作者はそこはうまくやっている。問題は、レヌーが学校にいる間に起こったリラの出来事も、語り手のレヌーが話さなくてはいけないところだ。レヌーがリラと距離を取ろうとしている場合でも、レヌーはその部分を話さなくてはいけない。とくに大学時代はナポリを離れてピサへ行ってしまうので、まったく情報が入らなくなってしまう。

そこでレヌーは、実家に帰ったときに友達からいきさつを聞きまくったりする。それはまあ、いいとして、もっともトリッキーなのは、何かあるとリラは自分のいろいろな思いをノートに綴っているのだが、人生の節目になると、ここには置いておけないからと、レヌーにそのノートを預けるのだ。したがって、レヌーはリラに起こったことを、そのときの気持ちも含めて正確に再現できるということになっているのである。

ちょっとトリッキーでしょ? でもそれを読むたびに、レヌーは衝撃を受けることになっていて、話の展開にもいちおう貢献しているのである。

✳✳✳ 以下は結末部分について触れるので、ネタバレ注意 ✳✳✳

最初の方では、創造の才能を多少は発揮しているリラだが、その後は全編に渡って破壊的な行動をとる。夫の事業を破壊し、家族兄弟を破壊し、ついには家を出てしまう。それこそまったく何も持ち出さずに。(しかも、わざわざ行き先の住所も残すのだ)。

大学を卒業するときに、レヌーは小説を書いて、それが出版されることになる。それを報告しに、リラのところを訪ねる。リラが住んでいるところは実家の貧民街よりもさらに落ちる極貧街だ。そこでリラはサラミ工場で働きながら子供を育てている。

一見、大学を卒業し、作家デビューを果たしたレヌーが成功者で、リラは敗者だ。だが、次の一言で、レヌーはそういう自信がなくなってしまう。
「夜は息子が寝てから勉強をしているの。プログラミングの。フローチャートってわかる?」
「わからないわ」
1960年代の話なのだ。パソコンはまだない。リラは極貧の生活の中でも、最先端を走り、レヌーを追い越してしまっている。

リラの強さは、必要ならすべてを捨てるのに躊躇しないところにある。生きるか死ぬかの思いでいるのだ。石橋を叩いて慎重にキャリアを重ねるレヌーにはできないことだ。その一方で、リラは形あるものがすべて溶け出して消滅してしまうという恐怖に駆られ、また自分も消滅したいという願望も備えている。相当にヤバイ人間なのだ。(そして非常に美しいということなっている。)

この小説は、フェミニズムと絡めて話されることが多いかもしれない。しかし、小説として純粋に面白い。

 ★★★★★

 


新しい名字 ナポリの物語

一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学

cis KADOKAWA 2018年12月21日
読書日:2019年3月14日


230億円の資産を持ってるcisさんの、投資本。「おっすおら損五億」という名文句で有名。勝っている人の話を読むのは楽しい。

cisさんは子供のころからゲームやギャンブルが大好きで、小学校のころ、駄菓子屋にある当たり付きの駄菓子のどれが当たりなのかを見抜いてそれで仲間から神と呼ばれていたそうだ。しかもそれでお小遣いを稼いでいたりする。

ウルティマのようなゲームもやりこんで、世界ランクの上位にランクインしている。つまり何かルールやシステムがあるとそのルール、システム内で最も効率よく勝てる方法を極めるのが得意な人だ。

高校のころには、パチンコでもうけて、打ち子を雇って、大学を卒業するまでに、2000万円の資金を貯めている。

こういうゲームを極める思考が、トレーダーに有利なことは明らかだ。もはや使い切れないほどの資産を持っているのに、いまだにトレードをやっているのは、面白いからだという。そうして日々、新しいシナリオを考え続けて試しているとともに、いざという時に備えている。

わしは自分がデイトレーダーには全く向かない、と思う。しかし、昔はよく株の値動きを1日中見ていて飽きなかった。こうやって毎日値動きを見られたら幸せだろうなあ、と思っていた。本当にそうやって、毎日いろんな値動きを見ていたら、わしもデイトレーダーになれたのかしら。

このようにゲームでは大きな成果をあげる一方で、会社経営などの人を使う仕事や社会がよくなるような仕組みを考えるのは苦手と言っていて、会社経営のようなこともやってみたけど、結局は撤退している。

また、人のお金を増やすといった、そのようなプレッシャーになる、義務を負うようなことはまったくしない。つまり苦手な分野には近寄らず、徹底して自分の得意な領域に絞って活動している。

注目できるのは、子供の頃に、個人で地域通貨のようなものを発行して、通貨というものの特性を体で感じていたことです。例えば、通貨の発行のし過ぎで、経済システムが崩壊するのを実地に体験したりしている。通貨と商品の関係を本能的に学んでいる。こんなことを子供の頃にもう理解していたとは驚きで、これは大きいと思った。

そのせいか、こんなことも言っている。

cisさんはお金の価値が、現代になってものすごく下がっているという。つまり明治時代なら、個人が個人の力のみでお金を何百億円も集めることはできなかった。財閥や国家でないと不可能なレベルだった。しかし、いまや個人がこれだけお金を集められるのは、お金の価値が下がっていることを意味している、という。

お金の価値が上がっているか下がっているかというのは興味深い問題で、なかなか答えるのが難しい。なぜなら、物の価値が下がるというデフレが急速に進んでいて、デフレというのは通過の価値をあげることに相当するからだ。例えばかつてなら数万円したものが100円ショップで買えたりする。何十万円もしたパソコンの機能もいまや1万円のスマホタブレットでもできる。つまり技術の発達がデフレを引き起こしているから、通貨の価値は上がっているともいえる。

まあ、お金を集めるのなら今の時代しかないかないのかも知れないので、皆さん、頑張りましょう(^-^;。

★★★☆☆

 


一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学 (角川書店単行本)

 

ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景

福嶋亮大 PLANETS/第二次惑星開発委員会 2018年12月17日
読書日:2019年3月10日


ウルトラマン・シリーズというTV番組の存在を、戦前から続く特撮やアニメのサブカルチャーの歴史に位置づける作業を行ったもの。著者は1981年生まれで、ウルトラマン・シリーズをリアルタイムで経験していないが、もしかしたらそのことがかえって戦前からの長いスパンで見通すうえで、役に立っているかもしれない、と感じた。

一読して驚くのが、日本のサブカルチャーがいかに戦争の影響を受けているかということである。もちろん、自衛隊という軍隊ではないと言われた軍隊をもつ不思議な構造が、日本のサブカルチャーに影響を与えていることは以前から気が付いていたが、影響はそれ以上だった。

例えば、日本の戦争プロパガンダ映画においては、敵が全く登場しないという、驚くべき特徴があるという。

戦争中に製作された「ハワイ・マレー沖海戦」は、円谷英二が特撮監督を務めたドキュメンタリータッチの戦争映画である。すでに著作権が切れていて、パブリックドメインになっており、ユーチューブ等でも観ることができるので、わしも観てみたが、本当に敵が出てこない。真珠湾攻撃も、ただ爆撃機が山の中腹をかすめるように飛んでいき、真珠湾の艦船を爆撃するが、敵の姿はないのである。敵の様子は、ただただラジオ放送の声を通してのみ、伝えられる。

それは、別に、「ハワイ・マレー沖海戦」だけではなく、例えば「五人の斥候兵」という作品でも、斥候兵が無事に生還するまでの記録となっていて、戦闘シーンなどはないらしい。つまり仲間との関係が中心で、敵は遠景になってしまっている。

なぜ敵が出てこないのか、と外国人ジャーナリストに聞かれた、ハワイ・マレー沖海戦山本嘉次郎監督は「そんなこと考えもしなかった」と答えている。

それは戦後のサブカルチャーも受け継いでおり、なんとなく敵が希薄な状態が続いており、正体不明の使徒と戦うエヴァンゲリオンにも受け継がれているという。例外はわずかで、機動戦士ガンダムはその例外となっている、という。

そう言われてみればその通りで、ウルトラマンにしても怪獣は敵ではあるが、火力発電所やコンビナートを襲う災害の象徴と言った趣なので、納得である。これが戦争ドキュメンタリーの影響なのか、そもそも日本人の思考回路の特徴なのかはもう少し考えてみたいところではある。

本書は参考文献のリストが充実していて、そういった意味でも有用である。

★★★★☆

 


ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景

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